地政経済と政治

世界の現在地は「複合危機」の真っ只中にある

フロンティア技術の人間性や雇用、社会的包摂への影響について、会期中は、さまざまな議論が交わされた Image: 世界経済フォーラム

Kiriko Honda
Head of Business Engagement, Japan, World Economic Forum

毎年、スイス・ダボスで開かれる世界経済フォーラム(World Economic Forum)の年次総会は2026年、56回目を迎えた。今回は「対話の力(A Spirit of Dialogue)」をテーマに開催された。戦後の国際社会を支えてきた国連を中心とするルールに基づく国際秩序、自由貿易、民主主義や資本主義経済といった価値観の共有が揺らぐなか、かつてないほど不確実で舵取りが難しい世界情勢下での開催となった。

2026年の年次総会に先立ち公表された『グローバル・リスク報告書2026』では、短期的には異常気象よりも、地政学的・社会的分断が大きなリスクとして浮上した。

『グローバル・リスク報告書2026』が指摘する短期的・長期的リスクのトップ10
『グローバル・リスク報告書2026』が指摘する短期的・長期的リスクのトップ10 Image: 世界経済フォーラム

地政学的・社会的分断について、年次総会の締めくくりとなる「グローバル・エコノミック・アウトルック」のセッションにおいて、IMF(International Monetary Fund:国際通貨基金)のクリスタリナ・ゲオルギエワ専務理事が「世界をありのままに直視する必要がある」と語れば、WTO(World Trade Organization:世界貿易機関)のンゴジ・オコンジョ=イウェアラ事務局長も「元には戻らない」との認識を示した。

米国と欧州の間に亀裂が生じていることも明らかになった。それが修復可能なのかどうかについては、会期を通じて、さまざまな意見が交わされた。米ハーバード大学教授で元IMF筆頭副専務理事のギータ・ゴピナート氏は「私たちは100年に一度とも言える国際秩序の崩壊の初期段階にいるのかもしれない」と指摘する。

EC(European Commission:欧州委員会)のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は「過去へのノスタルジーでは旧来の秩序は戻らない。恒久的な変化には恒久的な対応が必要だ」と述べ、戦略的自立を目指す欧州の姿勢を明確にした。

世界の現在地は「複合危機」の真っ只中にある。地政学的緊張や、経済の分断、社会的分極化、環境危機、エネルギー安全保障、公的債務の増大と人道支援の縮小などが同時に進んでいる。そこにAI(人工知能)をはじめとする急速な技術革新が重なり、政治、経済、社会の前提そのものが揺らぎ始めている。

会期を通じて浮き彫りになったのは、地政学的な分断とテクノロジーの急速な進化が同時に進む世界の新たな力学だ。AI、量子コンピューティング、次世代バイオテクノロジー、新たなエネルギーシステムといったフロンティア技術は、新たな成長の原動力である。

だが一方で、人間性や雇用、社会的包摂への影響について、さまざまな議論が交わされ、経済成長の再定義、社会的結束、そして地球環境の限界を踏まえた繁栄のあり方が共通のテーマとして共有された。

テクノロジーのパラダイムシフトが“主権”を揺るがす

こうしたテクノロジーのパラダイムシフトは“主権(Sovereignty)”のあり方にも大きな影響を与えている。

近年、AI技術、データ、エネルギーといった戦略的資源は、一部の巨大テクノロジー企業への集中が急速に進んでいる。これらの企業は膨大な計算資源や、データ基盤、半導体設計能力、クラウドインフラなどを垂直統合し、国家を凌駕する規模の影響力を持つようになりつつある。その結果、各国の「AI主権」「データ主権」「エネルギー主権」は相対的に弱まりつつある。

背景には2つの構造的変化がある。第一は、テクノロジーは本質的に国境を越えるという点だ。AIモデルは国境を越えて提供され、クラウド基盤はグローバルに分散し、データは瞬時に移動する。第二は、最先端技術の開発には莫大な投資とエネルギーが必要になり、それを担えるアクターが限られているという現実である。

このような構造の中では、一国がAI開発からインフラ、データ、エネルギーまでを完全に自前で確保することは容易ではない。多くの国や企業が特定のプラットフォームや技術スタックに依存せざるを得ない状況が生まれている。

こうした課題に対する新たな試みも始まっている。その1つが「Digital Embassies(デジタル大使館)」だ。国家が自国の主権を維持したまま、国境を越えてデジタルインフラを拡張する新しいモデルとして注目されている。具体的には、サイバー攻撃や自然災害、あるいは戦争などで国内のインフラが損なわれた場合に備え、重要な政府データや国民のデジタルアイデンティティを国外のパートナー国の安全なサーバーに保管する。

パートナー国に保管されたデータは、物理的な大使館同様に、ホスト国の法律から保護され、元の国家の管轄権が適用される。信頼できるデジタルインフラを国際的に設計・統治・運用するための共通基盤の確立に向け世界経済フォーラムは、AIの主権に関わる「デジタル大使館フレームワーク」の開発を関係者とともに進めている。

AIと共存する社会は誰も未経験

2026年の年次総会は明確な答えを示す場ではなかった。むしろ、分断が深まる世界の中で、最も重要な問いを共有するための場であったと言える。ベルギーのデウェーフェル首相は会合で、イタリアの思想家グラムシの言葉を引用し「古い世界は死につつあり、新しい世界は生まれようとあがいている。今はモンスター(怪物)の時代だ」と語っている。

19世紀の国際秩序は、力による領土拡張を前提にしていた。しかし21世紀の世界は、急速に進化するテクノロジーと、既に高度に相互依存した経済構造の上に成り立っている。どれほど世界が分断されようとしても、テクノロジーは国と国、人と人を結びつける方向に働き続ける。

米マイクロソフトのサティア・ナデラ会長は「AIは急速に世界に浸透し、経済成長の新たなエンジンになる」と語り、米NVIDIAのジェンスン・フアンCEO(最高経営責任者)は「AIが技術格差を縮小する可能性」に言及した。一方で歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ氏は「人類は人間とAIが共存する社会をまだ経験したことがない。正しい問いを立てることこそが解決への第一歩である」と指摘する。

“原則”を重視する日本に広がる機会

こうした世界の変化のなかで、日本そして日本企業にとっての機会も見えてくる。年次総会では「対話は贅沢ではなく必須である」と繰り返し語られた。これは外交や政治だけでなく、企業経営にも当てはまる。日本企業にとって、ステークホルダーとの継続的な対話、異なる価値観との共存、分断を前提とした意思決定が、競争力の源泉になりつつある。

米欧関係の緊張や地政学的分断が深まるなか、日本は中堅国の一角として信頼構築やルール形成に貢献できる立場にある。法の支配や自由貿易といった原則を重視する日本の姿勢は、分断が進む国際社会において橋渡し役としての役割を果たし得る。

さらに、日本企業の長期志向、合意形成力、現場力は、新興国やインド太平洋地域との協業において大きな価値を持つ。AIをはじめとする技術革新は不可逆的であり、企業の競争力を大きく左右する。しかし同時に、年次総会では「人間性をどう守るか」という問いも強く投げかけられた。

人間中心の設計、安全性や品質を重視する日本企業の姿勢は、責任ある技術の実装という観点から世界に発信できる1つのモデルになり得る。人口減少社会への対応、自然災害への備えと復興の経験など、日本が培ってきたレジリエンスの知見もまた、次の繁栄のあり方を考えるうえで重要な示唆を与えるだろう。

不確実性が唯一の確実性となる時代において、ダボスでの年次総会は世界の未来を決めたわけではない。しかし、未来を形づくるための問いと、その輪郭は確かに浮かび上がり始めている。

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