第一次産業革命以来、生産効率の向上が経済成長と幸福のカギを握ってきました。分業化、製造、電力、コンピューターはいずれも生産性の向上、GDPの増加をもたらし、その結果として賃金と国民の幸福も増大しました。賃金上昇はモノとサービスの消費拡大を促すばかりでなく、徴税を通じた国家予算の拡大をも意味しました。繁栄の好循環が生まれたのです。他者より多く稼ぐ人が現れ、恒常的な世代間の不公平が生じました。とはいえ、経済手段それ自体は、人口の主要セグメント全体で強化されました(いうまでもなく、植民地化されたり、そうした稼得から意図的に排除されたりした場所は例外です)。

こうした生産効率と経済成長、そして、賃金との関係がいま、第四次産業革命(4IR)の下で崩れつつあります。デジタル技術がデジタル社会を生み出し、幸福増進の源泉は大量生産から大量サービスへと代わってきています。そして、資産の共有が資産の排他的所有に取って代わりつつあります。

消費者に同一の最終効用を提供するには、製品の生産量を減らす必要があります。一方で、共有型経済とは、従来は十分に活用されていなかった資産の生産性が向上することを意味します。インド経済は今後5~7年以内に5兆ドル規模に達すると見込まれていますが、その時点での国民1,000人当たりの自動車所有台数は、多くても約50台とみられています(現在は22台)。一方、現時点で経済規模5兆ドルの日本では、1,000人当たりの自動車所有台数は600台近くに上ります。自動車に対する需要全体でみると、インドは2021年には日本を追い抜くとマッキンゼーは予測しています。ただ、この数値では一人当たりの新車需要は明らかになりません。個人の自動車所有台数には大きな隔たりがあっても、プライベートなライドシェアや、その他のモビリティサービスという選択肢により、日本とインドの住民の輸送体験の差は縮小するとみられます。

自動車部門の動向にみられる相違は、とりわけ示唆に富んでいます。20世紀には、組み立てラインによる大量生産が効率的な製造業者を生み、その結果として収益が増加しました。これは、「フォーディズム」と呼ばれているシステムの特徴です。21世紀に入り、個人や国はより効率的な消費者になることによって幸福の増進を手にしています。消費効率が生産効率に取って代わりつつあり、こうした潮流は「ウーバーリズム」と呼ぶことができます。

この「フォーディズム」から「ウーバーリズム」への移行に伴う変化は、経済指標で捉えることが困難です。資産利用が一段と効率的になり、従来型の製造から革新的な大量サービスへの移行、つまり、より少ない製品と物理的活動によってより大きな効用を提供することは、国民経済計算上、GDPの成長ではなく、価値の破壊または停滞であるかに見えるかもしれません。とはいえ、将来の幸福増進は、従来の経済的枠組みで考察するなら、まさに成長の鈍化と減少のように見える可能性が高いのです。

こうした状況は、次の3つの重要な潮流を、経済学者と政治学者が理論化し、取り組む必要があることを示唆しています。

第1に、経済発展の指標として、現在私たちが定義するGDPに代わるものが必要です。幸福の増進が必ずしもGDPに反映されない時代に、GDPの成長を追い求めるような政府と政策立案者は、国民に十分貢献できないでしょう。そうした場合、政策の軸足は、4IRとは無関係の目標に置かれることになります。一部を除き、生産主導の成長ドライバーに偏った消費バスケットは、いまや経済を適正に評価する指標として正確ではありません。この一部とは、幾つかの部門(食品生産は共有型経済に驚くほど弾力性がありますが、効率化の影響を免れないことは間違いありません)と、幾つかの最終製品(そうした例外のひとつが個人向けコミュニケーションデバイス)です。

第2に、生産性、労働、消費に関する新しい理論が必要です。かつて経済力は単位当たりの価値創出に由来していました。しかし、徐々に全体の価値が重視されるようになっています。企業や事業経営の力については、既にこれらの比較的新しい条件の中で判断がなされていますが、国家のバランスシートは依然として旧来の理論に基づいています。例として、エクソンモービルとアップルを比較してみましょう。2007年、当時としては前例のない原油価格の上昇が追い風となり、エクソンモービルの時価総額は初めて5,000億ドルを突破しました。この年の同社の売上高は4,000億ドルでした。つまり、時価総額5,000億ドルのエクソンモービルが計上した売上高は、時価総額1兆ドルのアップルの売上高をはるかに上回っていたのです。それでも、投資家の間ではプラットフォームの未来に対する信頼が厚く、ネットワーク外の要素に価値を置くことを重視する点で、見解が一致していたことになります。プラットフォーム経済では、その正当性を立証するのはプラットフォーム上の人の数であり、単純な単位当たりの生産量や過去の販売プロセスではありません。プラットフォーム上にいる、またより広範には「サービスのエコシステム」(フェイスブック、グーグル、さらにはアドハーなど)上にいる個人や、10億の人たちの本源的価値は、GDP評価によってではなく、株式市場によって捉えられます。

このプロセスは、必然的に、現行の知的所有権(IPR)制度の経済的、政治的な実現可能性を再評価するという帰結を招くでしょう。今日では、「オンボードさせること」つまり、ユーザーをプラットフォームやサービス、オペレーティングソフトウェアなどにログインさせることが、「ゲートキーピングを行うこと」つまり、IPRの使用、またはユーザーアクセスに対して課金することよりも一般的です。では、今日のIPRは、インダストリー4.0に取り組む国や国民にとり、価値創出という点で有用なのでしょうか。これが意味するのは、「イノベーション」そのものの本質、定義、価格付けを変える必要があるかもしれないということです。アンドロイドやiOSの周囲で現在起きていることは、未来に対する幾つかのヒントを与えてくれています。

最後に、この議論は、社会組織に関する新しい理論の必要性を若干掘り下げなければ不十分だと思われます。労働者としての、市民のアイデンティティを軸に展開される、政治的または社会的な仕組みは、今日のデジタル社会には適していません。例えば、工場の生産現場から携帯型デバイスへといった形で生じる職場の再構成、そして仕事自体の本質の再構成は、先に述べたとおり、政治構造や社会的な支援ネットワークが大きく変化することを示唆しています。この新しい時代において、労働組合は妥当性を維持できるでしょうか。第一次産業革命の階級闘争から発展した政党は、その存在理由を、一方に労働者階級、他方に経営者という構造に求めることができますが、今日ではどのような妥当性を持つのでしょうか。

消費者として、また資産所有者としての市民の基本的アイデンティティを再構成することは、階級に基づく旧来からの政治秩序に対するあらゆる挑戦の核心となります。無形のもの、つまり人の時間や自由な発想、プラットフォーム、ソーシャルネットワークへのエンゲージメントといったものが重要性を増し、これらが既に政治を変えています。ごく最近まで、総合的な国力において人口数の集計が重視されていましたが、データ経済では、パスポートを持つ物理的存在の重要性を理解するのが難しくなります。というのも、データ経済では「ユーザー」、およびユーザーのサービスエコシステムとのインタラクションだけが認識されるからです。ユーザーは領土内には存在せず、政治的、経済的な選択に属することもないでしょう。携帯電話上の市民権は、国家の妥当性や政府機関に大きな影響を及ぼし続けており、またその影響はいまだ十分な研究がなされていませんが、そうした中で、現行の国民国家に対する個人の期待、そして忠誠は変化しています。

3世紀に及んだ製造国家の統治時代がいま、終わりを迎えようとしています。ようこそ、プラットフォーム国家の時代。そのテンプレートが明らかになるのは、これからです。