薬剤耐性が、血液がん治療のサイレントリスクでなくなる日

がん治療における薬剤耐性対策には、多角的なアプローチが必要です。 Image: REUTERS/Jim Bourg
- がん治療を安全に実施するためには効果的な抗微生物薬が不可欠ですが、耐性菌の増加により、特に免疫機能が著しく低下した血液がん患者において感染症リスクが高まっています。
- 臨床試験では、感染症や薬剤耐性の影響が過小評価される傾向があり、血流感染症や敗血症、多剤耐性病原体の重篤な症例が適切に報告されていないケースが少なくありません。
- 抗微生物薬耐性への備えをがん治療に組み込むためには、より強固な感染症監視システム、適正使用プログラム、支持療法への投資、そして適切な政策の策定が不可欠です。
がん治療は今、新たなイノベーションの時代を迎えています。免疫療法、分子標的治療、細胞療法の進歩により、患者の治療アウトカムは劇的に改善しつつあります。ただし、これらの画期的な治療法のすべては、抗微生物薬という脆弱な基盤の上に成り立っています。
効果的な感染予防と治療がなければ、化学療法も幹細胞移植も、安全に実施することはできません。免疫療法の適用範囲も狭まり、臨床試験は混乱に陥り、腫瘍学分野の研究開発パイプラインも停滞する危険性があります。
この課題の規模は極めて大きなものです。2019年には、薬剤耐性菌による感染症が原因で、世界中で約495万人が死亡しました。
現在の予測によれば、今後25年間の死亡者の累計は3,900万人に達する見込みです。これほどの規模にもかかわらず、抗生物質耐性菌による感染症は、がん治療の臨床試験でほとんど注目されていません。患者の治療アウトカム、グローバルながん治療イノベーションのレジリエンス、将来の市場の持続可能性を脅かす重大な盲点となっているのです。
がん医療における感染症の影響
感染症は、がんそのものの進行に次いで、がん患者の死因の第2位となっています。最近の米国における複数施設共同研究では、薬剤耐性がこのリスクをさらに悪化させることが明らかになっています。
外来でがん治療を受けている患者では、耐性菌の割合が非がん患者群に比べて最大3倍も高いことが確認されました。また、入院患者においては、主要な病原菌に対する薬剤耐性率が非がん患者よりも1.5~2倍高くなっています。
特に血液がんの患者では、このリスクが極めて深刻です。白血病などの血液がんは、世界的に全診断症例の6.6%、がん関連死亡症例の7.2%を占めています。米国では、わずか3分に1人が血液がんと診断されています。
この疾患そのものと治療の両方が患者の免疫機能を著しく低下させるため、効果的な抗微生物薬を迅速に投与することが生存率を大きく左右します。
臨床試験と診療の間に存在するギャップ
血液腫瘍学分野の研究を精査した結果、感染症に関する報告は一貫性に欠け、不完全であることが判明しました。微生物学的データや薬剤耐性に関する情報はほとんど記録にありません。文献においては血流感染症が特に注目されており、その有病率は患者集団、治療内容、臨床環境によって22%から45%まで幅があります。
複数の抗生物質が効かない耐性を持つグラム陰性菌が、課題として繰り返し挙げられていました。特に、ESBL(基質特異性拡張型βラクタマーゼ)という酵素を作る腸内細菌科の細菌や、治療を何度も受けた患者に多いバンコマイシン耐性腸球菌です。これらの菌に感染すると、重症化しやすく、治療が非常に困難になります。
ただし、臨床試験データからは別の様子がうかがえます。血液腫瘍領域の臨床試験27件を分析したところ、有害事象の中で感染症が特に多く、内訳は肺炎等の呼吸器感染症が全体の50.6%、敗血症に関連する合併症が16.2%を占めていました。
どの種類の薬剤でも、呼吸器感染症が最も多く発生しており、敗血症関連の症状は、細胞傷害性化学療法(強い抗がん剤)、複数の治療を組み合わせた併用療法、標的型治療のいずれにおいても上位3位以内に入っています。特に標的型治療では感染症の発生率が最も高く、被験者の40%以上が罹患。一方、モノクローナル抗体(抗体医薬品)では感染率が比較的が低い傾向にありました。
これらの差異は、臨床試験と実臨床研究における報告方法の体系的な違いを反映しています。特に重要な点は、臨床試験では感染症が死亡や治療中止の原因となったかどうかがほとんど報告されておらず、その真の臨床的影響が把握できていないことです。さらに、抗微生物薬耐性に関するデータはまったく収集されていませんでした。どの臨床試験も耐性菌や保菌状態を系統的に記録しておらず、多剤耐性病原体の影響は把握することができません。
地域的な偏り
このデータ不足は収集方法から来るものだけではなく、地理的な偏りも存在します。臨床試験は主にヨーロッパ、北米、東アジア地域で実施されていますが、症例に基づく研究は、アルゼンチン、インド、トルコ、パキスタン、中国など、抗微生物薬耐性の蔓延率が最も高く、がん治療の需要が急速に拡大している地域で行われています。
この結果、科学的根拠と実際の医療現場の間に大きな乖離が生じています。患者にとっては、再発率の上昇、治療中断の増加、免疫抑制療法の実施可能性の低下といった深刻な影響が懸念されます。
薬剤耐性菌が蔓延している地域では、臨床試験における被験者の脱落率上昇、試験の遅延、プロトコールの失敗といったリスクが生じます。製薬企業にとってこれは、データの空白地帯が生じることに他なりません。薬剤耐性を過小評価することは、医療システムが混乱するリスクを過小評価することと同義なのです。
がん治療イノベーションへの影響
これらの盲点がもたらす影響は、患者ケアの範囲をはるかに超えたものです。この課題が放置された場合、画期的な治療法の安全性と実現可能性が損なわれ、臨床試験の結果に影響を及ぼし、がん治療分野における製品ポートフォリオの商業的持続可能性が低下する可能性があるからです。
頻繁、重篤かつ治療抵抗性の強い感染症は、患者の生存率に直接的な脅威を与えるとともに、イノベーションエコシステムのレジリエンスを損なう要因となります。
製薬企業にとって、その影響は戦略的なレベルにまで及びます。抗微生物薬耐性対策をがん治療薬の開発プロセスに組み込まなければ、患者の安全性と治療薬の市場存続性が脅かされるリスクがあります。その影響は治療のアウトカムだけでなく、収益の損失、市場参入の遅延、治療効果の低下といった経済的側面にも及ぶでしょう。
抗微生物薬耐性対策の構築
抗微生物薬耐性は、臨床面だけでなく商業面においても、がん治療薬業界にとって重大な脅威となります。イノベーションを将来にわたって持続可能なものとするため、企業、規制当局、政策立案者は以下の優先分野において迅速かつ断固とした対応を取る必要があります。
- 臨床開発段階から薬剤耐性対策を組み込む:ベースラインの定着検査、地域特性に応じた予防策、感染監視システムを試験デザインに統合します。さらに、試験実施地域を拡大し、抗生物質耐性レベルが高い成長市場を含めることで、より現実的なデータ収集を可能にします。
- 微生物学インフラと監視体制を強化する:試験実施施設において診断技術を支援し、定期的な耐性菌モニタリングを実施します。得られたデータを有害事象報告とリンクさせることで、新たな耐性ホットスポットを早期に特定します。
- 管理と予防に関するパートナーシップを構築する:試験に抗菌薬適正使用プログラムを組み込むことで不必要な抗生物質使用を抑制し、腸内細菌叢の健全性を維持します。また、試験実施地域の耐性パターンに応じて予防策を最適化します。
- サポート療法のポートフォリオを多様化する:抗感染症薬、ワクチン、病原体特異的モノクローナル抗体などの補助的医薬品への投資を行うとともに、がん治療レジメンと感染予防策を組み合わせたパッケージ製品の開発を検討します。
- デジタル技術と実際のエビデンスを活用する:予測分析を用いて感染症の初期兆候を早期に検知し、感染症負荷の高い地域から得られるリアルワールドデータを活用して、薬剤耐性が生存率、治療遵守率、および費用対効果に与える影響を実証します。
- 政策形成により競争優位性を確立する:薬剤耐性対策を共有すべき官民共通の優先課題として位置付けます。政策立案者と連携し、インセンティブの創出やポートフォリオの差別化を通じて競争優位性を確立します。
今こそ行動すべき時
対策を講じなければ、薬剤耐性菌の拡大は患者の生存を脅かすだけでなく、がん治療のイノベーションの持続可能性そのものを損なうことになります。対策を怠った場合の代償は、失われる命の数、停滞する新薬開発パイプライン、そして市場機会の縮小という形で現れます。
今日、断固とした行動を取ることで、がん治療におけるイノベーションの長期的な効果を確実にすることができます。薬剤耐性菌対策の準備態勢を、がん臨床試験、ポートフォリオ、政策に組み込むリーダーたちは、患者を守り、試験の実施可能性を確保するとともに、世界的ながん治療イノベーションの強靭性を維持することができます。
薬剤耐性菌との戦いは、がん治療の未来そのものであり、今こそ行動を起こす時なのです。
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