長生きすると、私たちの人生はより良くなるのでしょうか?

Elderly women rest at their cottage where they were born in Kuluyo, Inquisivi Province in La Paz, Bolivia July 12, 2018. Picture taken July 12, 2018. REUTERS/David Mercado
By the year 2300, the oldest person alive could be about 150 years old.Image: REUTERS/David Mercado
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老化研究における最大の問いの一つは、人間の寿命に上限があるかどうかです。最近、『Science』に掲載された研究では、上限はないことが示唆されています。この研究では、イタリアに住む105歳以上の3,896人の生存確率を測定しました。その結果、75歳で死亡する可能性は55歳の場合よりはるかに高いものの、約105歳に達すると、その後は1年ごとの死亡の確率がほぼ同じままであることがわかりました。

この現象はしばしば「死亡率のプラトー(高止まり)」と呼ばれます。もし一定の年齢を超えて生きることが不可能であれば、人は年齢を重ねるにつれて死亡率が上昇し続けると予想されますが、実際にはプラトーに達します。105歳を超えても死亡の確率が上昇していないように見えることは、人類としての最大寿命にはまだ達していないことを示唆しています。しかし、一世紀以上生きることは、私たちが期待すべきことなのでしょうか。この点については、哲学が重要な示唆を与えてくれます。

もちろん、寿命に上限がないと確実に言えるわけではありません。研究者の中には、人間には自然な「寿命の期限」があり、それは約125年であると主張する人もいます。宮古千代は現在、117歳で、世界で最高齢であることが確認されている人物です。ジャンヌ・カルマンは、1997年に亡くなりましたが、122歳という記録上最長の寿命を持っていました。

英国では、100歳以上の人口が2002年以降に倍以上に増加しており、2030年までに36,000人に達する可能性があります。死亡率のプラトーが存在するならば、2300年までに存命の最高齢者は約150歳に達する可能性があります。

Image: Bank of America/Merrill Lynch Global Research

快楽と苦痛

最大寿命が150歳になると、私たちの人生はより良くなるのでしょうか、それとも単により長くなるだけでしょうか。これを考える一つの方法は、快楽と苦痛の観点から見ることです。人生の中で快楽が多く(苦痛が少なく)あるほど、人生は良いものになります。その他の条件が同じであれば、80年続く人生よりも100年続く人生の方が良いものです。ただし、その追加の20年により多くの快楽があり、苦痛よりも多い場合に限ります。

この結果はどの程度起こりうるのでしょうか。人は年齢を重ねるにつれ、生活の質を低下させる可能性のある変性疾患を発症する確率が大幅に高まります。しかし、これらの状態は、健康的なライフスタイルと十分な支援サービスによって緩和することができます。高齢者の生活はある面で制限されるかもしれませんが、全体として見れば、楽しいものになり得ない理由はありません。

一方で、寿命が延びることは、それ以前の生活の質に影響を与える可能性もあります。2017年には、生産年齢(16~64歳)の人が約3.5人65歳以上の人一人につきいましたが、しかしこの比率は2040年までに1対2.1にまで低下すると予想されています。これは、年金給付を請求する人が相対的に増え、それを支えるために税金を納める労働人口が減ることを意味します。その結果、労働人口に追加の税負担が求められたり、より長く働き続けることを求められたり、年金費用を賄うために他のサービスが削減されたりする可能性があります。

望ましくない後書き

私たちは、望むものを手に入れたときに人生がうまくいくと考えることもあります。寿命が延べれば、目標や計画を達成するための時間が増えるかもしれません。しかし、望ましい人生とは、一定の物語的構造を持つものだと考えることもできます。

故人となった哲学者のロナルド・ドゥオーキンは、人々が人生の目標をどのように捉えるかを明らかにするために、「経験的利益」と「批判的利益」を区別しました。経験的利益とは、快楽のような、私たちが楽しむすべてのものに関するものです。批判的利益とは、私たちが実現を価値あるものと考えるものであり、何が良い人生を構成すると私たちが考えるかにとって本質的なものです。例えば、親が子どもの幸福を気にかけることがこれにあたります。

極度の高齢に伴う、認知症による尊厳の損失を避けたいという批判的利益を持つ人を想像することができます。その時点ではその人が認知機能の低下を気にしていないように見えても、それが本人の望んだ人生の進み方ではなかったかもしれません。人生全体を考慮すれば、この衰えの時期に入る前に亡くなっていた方が、その人にとって良かったと考えることもできるでしょう。

言い換えれば、長く生きすぎるかもしれない状況は数多く存在します。時には、自分が望んだ「人生の物語」により合致する場合、予定よりも早く死ぬ方が良いこともあります。例えば、生涯を通じて活動的で自立していることなどです。

欲求の衰え?

同様の懸念は、故人となった哲学者のバーナード・ウィリアムズによっても提起されています。ウィリアムズは、私たちの人生に意味を与えるものは「定言的欲求」であり、それは私たちのアイデンティティに不可欠なものだと主張しました。これには、小説を書くこと、子どもを育てること、慈善事業を成し遂げることなどが含まれます。これらに加えて、食べ物や性への欲求など、より「無意味な」欲求もあり、彼は、それらは長期的には私たちを幸せにすることはできないと主張しました。

ウィリアムズは、長く生きれば、私たちはすべての定言的欲求を満たすことになり、幸福の重要な原動力を失うと考えました。その結果、残りの人生は抑圧的な退屈に直面するか、根本的な欲求を置き換え、自分自身を根本から変えることになるというのです。

しかし、私の考えでは、非常に高齢になっても人生は豊かで複雑なままであり、新しい計画に取り組むことは、私たちが何者であるかを損なうものではありません。これは、友人や大切な人々も長く生きる場合には、特にそうです。私たちの欲求や関心は変わるかもしれませんが、他者とのつながりは、人生の様々な段階を通じた連続性を促す助けとなり得ます。

これらの見解はいずれも、長生きすること自体が私たちをより良い状態にするわけではないことを示しています。人口の高齢化が続くにつれ、私たちは高齢者をどのようにケアしたいかについて、重要で、場合によっては難しい選択をする必要が出てくるでしょう。特に重要なのは、健康的な老化を促進する戦略が、社会の負担を軽減するだけでなく、長く生きる人生をより良い人生にする、哲学的な意味においても、その助けとなることです。

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