サミュエル・ピープスの日記に見る、ペストと新型コロナウイルス禍の暮らしの共通点

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There were eerie similarities between Pepys’ time and our own.Image: Unsplash/Victor He
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  • 17世紀の英国海軍行政官サミュエル・ピープスは、1600年代に日記をつけ、腺ペストの流行についても記録していた。

  • 公衆衛生に関する矛盾した助言から、疑心暗鬼や恐怖の感覚まで、17世紀の暮らしと今日のCOVID-19パンデミックには共通点がある。

4月初旬、作家のジェン・ミラーは、ニューヨーク・タイムズの読者に新型コロナウイルス日記をつけ始めるよう勧めた。

「ひょっとしたら、」彼女は書いた。「いつかあなたの日記が、この時代を知る貴重な手がかりになるかもしれません」

別のパンデミックの時代、17世紀の英国海軍行政官サミュエル・ピープスは、まさにそれを実践した。彼は几帳面に1660年から1669年まで日記をつけた。その期間には、ロンドンで腺ペストが大流行した時期も含まれていた。疫病は常に人々を脅かしてきたが、はるか昔の危機のさなかにある一人の暮らしを、これほど詳細に垣間見る機会はめったにない。

17世紀のロンドンには、Zoom会議もドライブスルー検査も人工呼吸器もなかった。しかしピープスの日記からは、人々のパンデミックへの対応に、驚くほど似通った点があったことが分かる。

じわじわと高まる危機感

ピープスやロンドンの住民には、1664年末から1665年初めに市壁の外にある貧しい地区、セント・ジャイルズ教区で起きたペストの流行が、疫病の大流行に発展するかどうか、知るすべはなかった。

ペストがピープスにとって日記に記すほど現実味を帯びたのは、1665年4月30日のことだった。「市内で疫病への大きな懸念がある」と彼は書き、「すでに二、三軒の家が閉鎖されたと言われている。神が皆をお守りくださいますように」と続けた。

ジョン・ヘイルズによるサミュエル・ピープスの肖像画(1666年)。Image: ナショナル・ポートレート・ギャラリー

ピープスは6月初めまで普段どおりの生活を続けたが、その頃、初めて自分の目で「閉鎖された」家を見た。当時、隔離を意味したこの表現どおり、家のドアには赤い十字が描かれ、「主よ、われらをお救いください」と書かれていた。それ以降、ピープスは流行をますます気に病むようになった。

ほどなく彼は、遺体が路上を運ばれて埋葬されるのを目にし、かかりつけの医師を含む知人も何人か亡くなった。

8月半ばまでに彼は遺言を作成し、「主がこの病の時期に私を召されることになれば、魂はずっと良い状態にあるだろうと願っている」と記した。同月後半には、人影のない通りについて書き、出会った歩行者は「この世に別れを告げた人々のように歩いていた」と記した。

死亡者数を追う

ロンドンでは、教区書記官組合が「死亡報告書」を印刷し、毎週の埋葬者数を集計していた。

この一覧に記録されたのはロンドンの埋葬者であり、死亡者ではなかったため、実際の死者数を確実に下回っていた。今日、私たちがこうした数字を細かく追うのと同じように、ピープスも日記にペストの犠牲者が増えていく様子を記録した。

「死亡報告書」は定期的に掲示された。Image: Photo 12/Universal Images Group、Getty Images経由

8月末、彼は死亡報告書にペストの犠牲者が6,102人と記録されていたと記したが、「今週の実際の死者数は1万人近い」と懸念した。主な理由は、都市の貧困層の犠牲者が数えられていなかったことだった。1週間後、彼は公式発表の1週間の死者数6,978人を記し、「まことに恐ろしい数だ」と述べた。

9月半ばまでに、ペストを抑え込む試みはすべて失敗していた。隔離措置は徹底されず、王立取引所のような場所には人々が集まっていた。つまり、ソーシャルディスタンスは実践されていなかった。

彼は、公式命令にもかかわらず人々が葬儀に参列していることにも、同じように警戒していた。ペストの犠牲者は夜間に埋葬されることになっていたが、この取り決めも崩れ、ピープスは埋葬が「白昼堂々」行われていると不満を記した。

必死に治療法を求めて

COVID-19に有効と分かっている治療法はほとんどない。医学・科学研究には時間が必要だが、ウイルスに深刻な影響を受けた人々は、何でも試そうとする。お茶やコロイド銀から、コニャックや牛の尿に至るまで、根拠のない治療法が提案されてきた。

ピープスが生きた時代は科学革命の時代だったが、17世紀には誰も、ノミが媒介する細菌ペスト菌がペストを引き起こすとは知らなかった。その代わり、当時の科学者たちは、ペストは瘴気を通じて広がると考えていた。瘴気とは、有機物の腐敗によって生じ、その悪臭で分かる「有害な空気」のことだ。最も一般的な対策のいくつかは、タバコを燻したり、ハーブや香辛料を鼻の前にかざしたりして空気を浄化するものだった。

ペスト流行中、ピープスが最初に試した治療法はタバコだった。6月初め、閉鎖された家を見て「自分自身と自分の臭いについて悪い考えを抱き、臭いを嗅いで……噛むために、巻きタバコを買わざるを得なかった」と記した。その後7月には、貴族の女性後援者から、さまざまなハーブで作られた薬「ペスト水」を1瓶もらった。しかし、どれも効果があるかどうかは分からなかった。コーヒーハウスで「この町でペストが広がっていることと、その対策」について話し合った後も、「人によって言うことが違う」と結論づけることしかできなかった。

ジョン・ダンストールによる1666年の版画。腺ペスト流行中のロンドンでの死と埋葬を描いている。Image: ロンドン博物館

流行中、ピープスは自分の心の状態も大いに気にかけ、気持ちを明るく保とうとしているとたびたび記していた。これは、今日の言い方をすれば「気に病まない」ようにする試みであるだけでなく、当時の医学理論にも基づいていた。その理論では、血液、黒胆汁、黄胆汁、粘液という、いわゆる体液のバランスが崩れると病気になるとされていた。

医師によれば、黒胆汁が過剰になると生じる憂鬱は健康を害するおそれがあったため、ピープスは否定的な感情を抑えようとした。たとえば9月14日には、友人や知人の死を聞いて「ひどく憂鬱になるのではないかと大いに不安になった。……しかし、悲しい思いはできるだけ先送りにしている」と書いた。

疑心暗鬼とリスクのバランス

人間は社会的な動物で、人との交流を通じて活力を得る。そのため、新型コロナウイルスのパンデミック下でソーシャルディスタンスを保つことに、多くの人が苦労しているのも不思議ではない。常にリスクを見極める必要があるからだ。どの程度近づくと近すぎるのか。感染を避け、大切な人を守りながら、正気を保つにはどうすればよいのか。同居する人がせきをし始めたら、どうすればよいのか。

ペスト流行時にも、こうした疑心暗鬼が広がっていた。ピープスはロンドンを離れて別の町に入ると、町の人々が訪問者を目に見えて警戒することに気づいた。

「こちらへ来る私たちを、彼らは恐れている」と彼は7月半ばに書き、「そのことで私は気がとがめる」と続けた。

ピープス自身も疑心暗鬼にとらわれた。7月下旬、召使いのウィルが突然、頭痛を訴えた。召使いがペストにかかれば家全体が閉鎖されると恐れたピープスは、ウィルをできるだけ早く家から連れ出すよう、ほかの召使いたち全員を動員した。結局、ウィルはペストではなく、翌日には戻ってきた。

9月初め、ピープスは病気が流行しているロンドンの地区で買ったかつらを着けるのを控えた。また、ペスト犠牲者の髪で作られている可能性があるため、ほかの人々もかつらを着けるのを恐れるだろうかと考えた。

それでも彼は、ある欲求を満たすためなら健康を危険にさらす覚悟があった。10月初めまでには、危険をまったく顧みず愛人を訪ねた。「周囲も隣の家も、四方がペストだが、私は気にせず、彼女とできる限りのことをした」

世界中の人々がパンデミックの収束を示す死者数の減少を待ち望むのと同じように、ピープスも9月半ばに初めて死者数が減ったことに希望を見いだした。おそらくそれが愛人に会いに行く後押しにもなったのだろう。1週間後、彼は1,800人を超える大幅な減少を記した。

ピープスと同じように、私たちもトンネルの先に光が見える日が近いことを願おう。

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