歴史の想像力に深く刻まれた光景といえば、西から東へ、あるいはその逆へと、ユーラシアの広大な空間に広がる砂漠をゆっくり進むフタコブラクダの隊列に勝るものはほとんどない。中国が今、「シルクロード」の現代版へと歩みを進めるなか、この古代世界の象徴が実際にどのように生まれたのかを振り返る価値がある。
中世初期にも後期にも、こうした陸上交易路が存在したことに疑いの余地はない。また、砂漠を越える旅が西から東へ極めて重要な文化的影響をもたらす一方、物資を反対方向へ運んだことも確かだ。
しかし、この物語にはもう一つの側面があり、それを中国政府も認めている。東アジアと中東、欧州を結ぶ巨大な大陸横断インフラ事業「一帯一路」(OBOR)がそれだ。簡潔に言えば、古代であれ現代であれ、シルクロードの物語は砂丘だけでなく海の物語でもある。

思想の交流
陸上ルートでは、香辛料や宝石などかさばらない品々に加え、絹の反物や、まだ織られていない絹糸の束も運ばれた。また、イスラム教と仏教の思想や芸術を東アジアにもたらす役割も果たした。
そのため、アレクサンドロス大王以来、すでにギリシャの影響を色濃く受けていたインド美術は、中国、さらには日本の美術にも大きな影響を与えた。日本に残る中世の仏像彫刻のモチーフを見ていると、最終的には古代地中海世界にまでさかのぼれることがあり、実に興味深い。
8世紀には、商人たちがいた。その多くはユダヤ人で、由来がいまだに解明されていない「ラダニテス」という称号で知られていた。彼らはフランスを出発し、なかには陸路で中国にたどり着いた者もいた。しかし彼らは真の先駆者ではなかった。既存のラクダ隊商に加わっていたからだ。この段階の交易路を、原初的なグローバル化の例と本気で見なすことはできない。高価なぜいたく品がごく少量もたらした西欧経済への影響は、わずかなものだった。
アジアを横断する交易路が栄えるには、政治情勢が安定している必要があった。11世紀と12世紀は比較的平穏な時期だった。しかしモンゴルの台頭により、新たな政治秩序がロシアから中国まで平和をもたらし、長距離移動を容易にした。ジェノヴァ人とヴェネツィア人が黒海沿岸の交易拠点に進出した時期には、とりわけそうだった。主な拠点は、クリミア半島のカッファ(現在のフェオドシヤ)や、アゾフ海沿岸のタナだった。
中世中国を訪れた最も有名な欧州人、マルコ・ポーロは、彼の記録が信頼できるとすれば、典型的な訪問者ではなかった。13世紀にモンゴル政権で長年働いた後、海路でヴェネツィアへ戻ったからだ。一方、ジェノヴァ人やヴェネツィア人のなかには、中国沿岸の泉州まで旅し、そこで生涯を終えた者もいた。また、中国の絹の反物が西欧まで渡ったことは確かだ。神聖ローマ皇帝の儀礼用装束には、少なくとも一つ、中国の絹で作られた品があった。
海上ルートの優位
14世紀にモンゴル帝国が分裂すると、中国とさらに西方の地域を結ぶ海上ルートの優位性が、より明らかになった。実際には、このルートは何世紀にもわたって途切れることなく続いていた。
実のところ、ローマ帝国時代にはすでにその基盤があった。エジプトから来たギリシャ人商人がベンガル湾に到達し、膨大な量のコショウがローマの港オスティアに運ばれていた。
しかしローマ帝国時代、中国との海上交通は極めて脆弱で、強大な競争相手である帝国に送られたローマの使節団は、ほとんど関心を持たれずに退けられることが多かった。さらに中国の政権は海に目を向けず、自国の豊かな資源の開発と徴税に専念する傾向があった。
大きな変化は7世紀以降に起きた。現在のマレーシアとインドネシアに当たる地域が、海上貿易に開かれたのだ。1100年頃、南中国を拠点とした宋王朝のもとで中国商人は海を渡るよう奨励された。東インド諸島からの樟脳交易は二つの方向に向かった。一方は中国沿岸へ北上し、もう一方は西へインド洋に進んだ。
スマトラ島のシュリーヴィジャヤの支配者たちの後援のもと、東インド諸島に交易網が築かれ、中国商人の世界とマレー商人、インド商人の世界を結びつけた。
名にふさわしい交易路が形を成しつつあった。それは「海のシルクロード」だった。
ジンジャーブレッド
海上ルートでは、香辛料が次第に大量に西へ運ばれ、インドを経て紅海を北上した。そこからエジプトのアレクサンドリアへ送られ、ジェノヴァ、ヴェネツィア、バルセロナなど西方の港町の商人が買い集めた。陸路で欧州を横断することもあれば、やがてイベリア半島を海路で回り、リューベック、リガ、タリンのハンザ同盟都市の市民が作るジンジャーブレッドに使われることもあった。
船はまた、イスラム世界で大きな需要があった中国製磁器を大量に運んだ。南シナ海の周辺では、そうした磁器が積まれた沈没船が今も見つかる。チレボン沈没船はジャワ島沖で発見され、積荷の一部として磁器50万点を載せていた。積荷の総重量は300トンだった。
やがて15世紀初頭にムラカが建設されると、中国はインド洋の縁に拠点を築いた。これは、1420年頃に訪れた短期間の活発な海洋進出の結果だった。明の皇帝たちは大艦隊をインド洋へ送り出し、鄭和提督の指揮のもと中国の旗を掲げ、中華世界の外に広がる世界の情報を集めさせた。
東西を結ぶこれらのルートは、1500年以降に世界貿易を一変させたポルトガル人、スペイン人、オランダ人が到来するずっと前から存在していた。そして、原初的なグローバル化と呼べるごく初期の事例と見なせるのは、陸路ではなく海上のシルクロードだった。今日にもほぼ同じことが当てはまるのは興味深い。OBOR計画のもと、列車でアジアを横断して運ばれる貨物量は、再興する中国商船隊が海路で運べる膨大なコンテナ貨物量には到底及ばない。

