汚職は、社会における「がん」として描かれることがあります。
この表現は、社会の病が身体のどこかで始まり、細胞を次々と侵しながら広がっていくことを示唆しています。この比喩に何らかの意味があるとすれば、社会という身体のどこに汚職の問題があるのかを突き止めることが重要です。病の所在が分からなければ、治療できる見込みは当然ながらほとんどありません。
しかし、どのような悪質な病にも言えることですが、汚職はその原因を覆い隠し、治療の試みを逃れるために、さまざまな神話や目くらましを持ち出します。以下では、こうした目くらましを一つずつ検討し、社会という身体のどこに処置を施せば、汚職の真の原因に立ち向かえるのかを探ります。
神話1:構造主義
多くの研究者と同じく、まずは汚職の原因が潜んでいるかもしれない社会構造を調べることから始めます。大規模なデータセットの増加により、汚職の度合いが高い国と低い国を分ける要因について、高度な統計分析が可能になりました。ルター派が優勢で、地理的に比較的小さく、植民地勢力による搾取の歴史がなく、民族的に比較的均質な国は、より良好な結果を示しています。こうした研究成果には確かに価値がありますが、現在の公共政策の範囲や影響力の及ぶ領域を超えています。がん患者が治療法を医師に尋ねたとき、「別の親を選ぶべきだった」と助言されても役に立たないのと同じように、研究者は統計的有意性と政策上の重要性を混同しがちです。
神話2:行動主義
この病の説明を試みるもう一つの流れは、政治家や公務員、その他の公共部門の専門職における誠実さの度合いや倫理基準といった行動上の問題に焦点を当てます。公務員の道徳的水準が高い国では、組織的な汚職が起きないことは言うまでもありません。この種の分析の問題は、説明変数と説明されるべき事柄とを区別しにくいことです。ある国の汚職が少ないのは、政治家、裁判官、公務員の倫理基準が高いからだと言うのは、ほとんど同語反復です。実際、この推論には説明力がなく、むしろデータを言い換えているにすぎません。
神話3:制度主義
構造的・行動的な説明に代わるのは、制度の重要性に注目することです。重要なのは、制度は人間によって作られ、再生産され(ときには破壊され)、したがって原則として政策による変化が可能だという点です。いわば「敵」は、少なくとも原理上は打ち負かせます。制度には公式のものと非公式のものがあるため、汚職を減らすにはどれに取り組むべきかを知る必要があります。この点について、研究は明確な答えを示しつつあります。つまり、公式制度の重要性は、実際以上に高く評価されてきたのです。
その一例がウガンダです。同国は援助機関による数多くの介入を経て、スウェーデン国際開発協力庁によれば、「汚職防止策の面でおおむね満足できる」制度的枠組みを整えました。シンクタンク「グローバル・インテグリティ」の指標では、ウガンダの汚職防止規制に関する公式制度は100点満点中99点を獲得しています。それでも、既存の指標によれば、同国は世界で最も汚職の深刻な国の一つです。

もう一つの例はイタリアです。同国の汚職に関する研究では、南部と北部の地域間で驚くほど大きな差が示されています。それにもかかわらず、同国は150年間、同じ公式制度を維持してきました。この結果は、特別な国家汚職防止機関の設置や、より厳格な法律の制定など、国レベルの公式制度の変更を重視することが、汚職対策としておそらく的外れであることを示唆します。これは、汚職を禁じる国内法が重要でないという意味ではありません。しかしイタリアの例から、それだけでは到底不十分であることは明らかです。今日、汚職が深刻な国の多く、あるいは大半は、汚職を禁じる厳格な公式法令を備えています。
神話4:文化主義
公式制度の重要性が低いということは、シチリアのような場所や、汚職が深刻な他の社会では、汚職が伝統文化に根付いているということなのでしょうか。これは人類学で広く見られる理解ですが、経済学でも次第に広がっています。文化相対主義に傾きがちな人類学者の多くは、文化を利用して汚職を正当化し、人々の幸福のほぼあらゆる側面に及ぼす悪影響を示す膨大な実証研究をほとんど顧みません。一方、経済学者は、汚職の深刻な社会の文化に責任を負わせ、「機能不全」と呼びます。
「文化」は、しばしば対象となる人々の一般的な道徳観を指す言葉として使われますが、このように汚職を捉えることには少なくとも二つの問題があります。一つ目は、実証的な裏付けが乏しいことです。サハラ以南アフリカ18カ国を対象としたアフロ・バロメーター調査では、回答者に、ある公務員が「友人や支持者の住む地域に開発事業を誘致する」、「十分な資格のない家族に職を与える」、「職務の一部であるサービスについて便宜や追加料金を要求する」という状況への見解を尋ねました。回答者25,086人の60~76%が、三つの例はいずれも「間違っており、処罰されるべきだ」と考えた一方、そうした行為を「まったく間違っていない」と見なしたのは少数でした。
インドでも同様の結果が報告されています。汚職が深刻な地域の村人の大多数は、公務員が「収入、地位、階級、カースト、性別、宗教にかかわらず、すべての人を平等に扱う」こと、また「いかなる状況でも決して賄賂を受け取らない」ことを「非常に重要」だと回答しました。
汚職に対する「文化主義的」アプローチの二つ目の問題は、それを政策にどう結びつけるかです。国の文化を道徳的に非難するのは、「あなたたちは不誠実で悪い人々だ」と言うのと大差ありません。幅広い政策変更を実現するうえで、これはおそらく良い出発点ではありません。
こうした分析の問題は、道徳観としての文化と非公式制度を混同していることです。非公式制度と道徳的価値観が別物であることは明らかです。哲学者たちは「道徳規範」と「社会規範」は「根本的に異なる」と論じてきました。道徳規範は「関連する規範原則を正当化する」のに対し、社会規範は「当然視されている社会慣行」から成ります。例えば、ある国を旅行中に、子どもの医療を受けるには医療従事者に賄賂を払うのが「当然視されている社会慣行」だと知れば、多くの人は支払うでしょう。しかし、その親は道徳的に憤り、それが倫理的に間違っていると確信しているかもしれません。同様に、汚職が組織的に蔓延する医療制度の医師は、「封筒に隠された」金を受け取る慣行を道徳的に非難するかもしれません。しかし、それが「当然視されている社会慣行」である制度の中で、自分だけ誠実であろうとするのはほとんど意味がありません。文化を道徳的な「信念」や「価値観」と捉えるなら、機能不全の非公式制度を必ずしも文化の一部と見なす必要はありません。
原因:「実際に運用されるルール」
では、汚職が社会という「身体」のどこにあるのかという問題を解決できるような、公式制度と道徳観としての文化のあいだに位置する社会的な要素はあるのでしょうか。
この問いへの答えとして、ノーベル賞受賞者のエリノア・オストロムは、「形式上のルール」と「実際に運用されるルール」を区別すべきだと提案しました。組織論の研究者は、文化と公式制度のあいだに、「標準業務手順」と呼ばれる一種の非公式制度が存在すると指摘しています。これらは正式に定められていないものの、関係者にはよく知られているルールです。しかし重要なのは、必ずしも関係者の道徳観の一部ではないということです。その意味で、哲学者が「社会規範」と呼ぶものに似ています。
汚職が徹底して蔓延する環境では、汚職は道徳的に間違っていると考える人でさえ、ほかの行動をとっても意味がないと考え、加担する可能性が高いでしょう。汚職が社会の道徳的基盤に根付いていると捉えることと、人々が道徳的に間違っていると思う行為を強いられる「標準業務手順」として捉えることには、明確な違いがあります。
政策の観点からは、これは朗報かもしれません。社会の文化(道徳規範として理解されるもの)を変える方法についてはほとんど分かっていませんが、「標準業務手順」を集団行動を通じて変える方法については相当の研究蓄積があります。纏足や少女の性器切除のような慣行がほぼ根絶された例や、かつて人々が信頼を失っていた制度に、組織が再び信頼を築いた例があります。
こうした「実際に運用されるルール」や「標準業務手順」を対象とした重点的な政策を通じて、ようやく汚職の根源に立ち向かい、長きにわたり社会という身体を蝕んできた病を長期的に治療できるかもしれません。
この記事は、世界経済フォーラムが編集する世界反汚職デー連載の一編です。汚職対策パートナーシップ・イニシアチブ(PACI)。


