私が初めて大学を中退したのは1994年のことでした。「ダマスカスの啓示」のように、ある朝目覚めて大学は自分に合わないと決断したわけではなく、数週間かけて自然にそうなっていったのです。母はよく、大学に行きたくないならそれでもかまわないが、少なくとも まともな仕事には就きなさい、と言っていました。
大学を中退したのは2度目ですが、その時のことははっきり覚えています。2000年1月のことで、私はコロラド州立大学のMBAプログラムで奨学金を受けていました。この2つの重要な節目の間に私の人生で起きたことは、スポーツが私を救い、自分自身から救ってくれたのだと表現するのが最もふさわしいでしょう。
まず、最初の大学生活についてです。1990年代半ばのダブリンは、ここ数年の大きな好況、不況、そして回復をまだ経験していませんでした。失業率は高く、国外への移住は日常的なことであり、人々が大学を中退することなどほとんどありませんでした。チャンスを与えられれば、人々はそれをつかむものだったのです。
それでも、建築学の授業に出席するうちに、まさにそれをしようとしている自分に気づきました。学問の世界とはまったく相容れないと感じていたのです。高校では多くの機会に恵まれていましたが、伝統的なカリキュラムを受け入れるだけの成熟さが欠けていました。大学に入ってもその成熟さは依然として欠けており、初めて、この件については自分に選択肢があると感じ、行かないことを選んだのです。
母と話し合った結果、ディーンズグレンジにあるシャムロック・フーズで、ウィスカス(キャットフード)の袋詰め作業をすることになりました。これが日中の仕事でした。夜はキャビンティーリーにあるバンク・オブ・アイルランドで、個人向け小切手を現金化のために「ジョグラー」と呼ばれる仕分け箱に振り分ける仕事をしていました。通常、作業は夜10時から翌朝2時まで続きました。
仕事に行く前の朝には、走っていました。主に頭をすっきりさせ、普通の気分を取り戻すためでしたが、ラグビーの練習をわずかにしかしていないのに、アイルランド全国学校選手権の400メートルハードルで2位になれた理由を探るためでもありました。
徐々に、私のランニングはより計画的で、より深く考えられたものになっていきました。多くのボランティアやコーチ、主にダブリンのクルセイダーズ陸上クラブに所属する人々の助けを借りて、私はアスリートとして成長することを学びました。
他の人々の自主的な努力のおかげで、珍しいことが起こりました。英国とアイルランドでレースに勝ち始めたのです。その後まもなく、名前を聞いたことしかなかった土地のコーチたちから電話がかかるようになり、奨学金の機会について話してくれました。家族の中で以前アメリカ合衆国に住んだことのある人はおらず、ましてアメリカの大学制度を理解している人などいませんでした。
1995年1月、私はジョン・F・ケネディ空港に到着しました。最初のケガをした時に私を見捨てる可能性が低く、アイルランドの文化をより深く理解してくれていると判断したマンハッタン大学を選んだからです。
その言葉どおり、1年生と2年生の期間の大半はケガをして、その回復に努めて過ごしました。しかし、大腿骨頸部の疲労骨折を治療してくれた素晴らしい理学療法士に出会いました。彼に支払う余裕はありませんでしたが、彼は無償で私の治療にあたってくれたのです。
数か月後、私は回復して1998年の室内シーズンを迎えることができました。400m、800m、1000mでは無敗でしたが、サンタモニカ・トラッククラブのジョニー・グレイと対戦することになりました。ジョニーはアメリカで最も速い800m走者であり、私は彼が私の本当の実力を試してくれると確信していました。彼はハーバード大学でのレースで4周にわたって私を引っ張り、NCAAランキングで4番目に速いタイムを記録しました。
数か月後にマンハッタン大学を卒業した後、この成功を基に更なる飛躍を目指してコロラド州に移りました。しかし、ミレニアムが終わりに近づく頃には、その成功の跡はほとんど残っていませんでした。私は少し太り気味で、ケガをしており、オリンピックでの偉業を目指すことよりも、どのレストランに行くかの方を気にかけていました。そこで1月に、MBAプログラムの学部長に連絡を取り、MBAの課程を修了しないことを伝え、シドニー・オリンピックへの出場資格を得るため、フルタイムで練習するためにアトランタへ移りました。
オリンピックのわずか数か月前に、適切なコーチがいないことは、もちろん問題でした。私はショーン・カイルを紹介されました。ショーンと妻のメイヴは、数十年にわたり、何百人ものアイルランドの選手たちに無償で尽くしてきました。彼らに助けを求めることがほとんど恥ずかしいほどでしたが、彼らは私を行方不明だった息子のように温かく迎えてくれ、その後数か月間、私が自分の能力を最大限に引き出せるよう助けてくれました。
これらのことは私の履歴書には載っていませんが、私という人間の根底にあるものです。これらの出来事はすべて、スポーツと、その時間を惜しみなく捧げてくれた人々のおかげで実現したものです。彼らは私の人格を形成し、自分の可能性を実現できずに終わる人間になることから私を救ってくれました。
献身、ひたむきさ、野心、そして、もう失うものが何もないと知った時にだけ生まれる恐れを知らない精神について私が学んだことはすべて、教室やその他の人生のどの場面からでもなく、陸上競技のトラックと、そこで時間を捧げてくれる人々から得たものです。
著者:ナイル・ダン氏はBTグループの最高サステナビリティ責任者であり、世界経済フォーラムのヤング・グローバル・リーダーでもあります。
画像:正しい道…ランニングはナイル・ダン氏が自分の可能性を実現する助けとなりました。REUTERS/Leonhard Foeger

