シェイクスピアはアフリカの学校で教えられるべきか?

シェイクスピアはアフリカの学校で教えられるべきか?
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ウィリアム・シェイクスピアはアフリカの学校や大学で教えられるべきなのだろうか。これは、ポストコロニアリティや脱植民地化をめぐる議論が文学や文化に及ぶとき、ときに軽い調子で、ときには真剣に浮上する問いである。

南アフリカの文脈でシェイクスピアを教え、論じる研究者である私自身が、しばしば投げかけられる、有益で必要な問いである。実際、私自身も頻繁にこの問いを自分に投げかけている。

しかしそれは同時に不器用な問いでもあり、言い換えが必要である。少なくとも、ニュアンスに富んだ一貫性のある答えを試みるのであれば、問いの立て方そのものをさらに検討する必要がある。

アフリカは一つの国ではない

最初の問題は、アフリカ大陸を一括りにして語ってしまうことにある。教育制度やそれを支えるインフラ、経済的な文脈は大きく異なる。これは国と国、地域と地域の間だけでなく、各国・各地域の内部にも当てはまる。

「アジアのシェイクスピア」について正確に語ることは不可能である。植民地時代の歴史と言語環境を持つインドにおける彼の位置づけは、中国や日本におけるシェイクスピアとはほとんど比較にならない現象であるという事実を考慮に入れなければならないからだ。

ヨーロッパにおいても、国家間の違いは同様に大きい。フランスにおけるシェイクスピア受容の歴史は、ドイツのそれとはまったく異なる。

同様に、単一の「アフリカのシェイクスピア」など存在しない。

フランス語圏と英語圏の諸国を分けるのは明白な区分かもしれないが、この区分さえも破綻する。フランツ・ファノンやエメ・セゼールといった作家が、シェイクスピアの「植民地的」な戯曲『テンペスト』と向き合ったことは、レオポール・サンゴールと結びつくネグリチュード運動に影響を与え、さらにサンゴールを通じてセネガルにも影響を及ぼした。セゼールの『Une Tempête』は、まずチュニジアで初演された。しかし、これはガボンやニジェールといった他のフランス語圏アフリカ諸国にはほとんど影響力を持たない。

ジンバブエでは、ときおり見られる気取った態度にもかかわらず、シェイクスピアは政治演説や新聞記事、日常会話において、ありふれた、ほぼ問題のない参照点となっている。

隣国の南アフリカでは事情が異なり、ここにもやはり多様なシェイクスピアが存在する。彼はネルソン・マンデラのお気に入りの作家の一人であり、ロベン島の囚人たちの間では全集の写しが回し読みされていた。作家、ジャーナリストであり政治的象徴でもあったソル・プラーチェは、シェイクスピアの作品をいくつかセツワナ語に翻訳した。

さらに、「白人のイングランド系リベラル」のシェイクスピアもあれば、アパルトヘイト国家が、もっぱらヨーロッパの「高級文化」の例として引き合いに出したシェイクスピアもある。また、元大統領のタボ・ムベキと結びつくシェイクスピアもある。ムベキは知識人エリート主義者とみなされ、最終的には与党ANCによって解任された。

これらの例から明らかなように、シェイクスピアは非歴史的で非政治的な真空の中で見られたり読まれたりすることはできず、したがって教えることもできない。アフリカでシェイクスピアを教えるのであれば、テクストだけを教えるわけにはいかない。

私たちは学生に対して、シェイクスピアが背負ってくる「荷物」を認め、さらにはそれを強調し、そして分析する責任がある。

シェイクスピアはどこに「収まる」のか?

シェイクスピアは伝統的に「英語」と切り離せない関係にある。中等学校では、これは彼の作品が文学テクストとして学ばれることを意味する。高校における「英語」は、英語の習得とも関わっており、とりわけ英語を第二言語または追加の言語として学ぶ学習者にとってはそうである。

シェイクスピアの初期近代英語の難しさ、時には完全な不透明さは、こうした学習者の助けになるだろうか。おそらくならないだろう。極めて熟練した熱心な教師がいなければ、シェイクスピアの言語は、「母語」または「第一言語」として英語を身につけている十代の若者にとってさえ、なお分かりにくいままだと言えるだろう(これには多くのバイリンガルの学習者も含まれる)。

ここで、シェイクスピアを教え学ぶうえで翻訳が不可欠な側面であるという主張がなりたつかもしれない。シェイクスピアの抜粋、あるいは戯曲全体を、キクユ語やイシズールー語への翻訳で学んではいけない理由があるだろうか。これらの言語から、作品を再び現代英語へと翻訳することもできるだろう。それは、シェイクスピアを「現代化」するというはるかに興味深い過程である。

その場合、教師は多言語教室という資源を活用できるだろう。それは学習者の多言語的な自信を損なうのではなく、むしろ強めるものとなる。同時に、シェイクスピアを、グギ・ワ・ジオンゴやマジシ・クネネといったアフリカの作家たちと対話させることもできるだろう。

しかし、これらすべては「べきだ」という言い方のぎこちなさにかかっている。何かを義務化すると、たいてい反感を招くものだ。シェイクスピアの戯曲やソネットに苦労して取り組んだ大半の学習者にとって、それは経験的にもそうである。

最終学年、あるいは上級学年では、州や省の学校制度全体にわたる継続性と一貫性のために、個々の学校や教師に限られた選択肢を与えるカリキュラムが必要になる。しかし可能な限り、教育課程のガイドラインは、シェイクスピアを単に一つの選択肢として、すなわち数多くの作家の中の一人として示すのが望ましい。

学習者は教室の外でも、舞台や画面上で、現代化され、翻訳された形で、正典作家であるというレッテルに縛られることなく、有意義にシェイクスピアと出会うことができる。大学に入る時点で彼の作品をまったく学んでいない者もいるかもしれない。それは悪いことだろうか。政治学の授業や哲学の講義で、あるいは美術史、経済学、メディア研究を通じて、シェイクスピアを発見する場面を想像してみてほしい。

結局のところ、シェイクスピアが本当に「属する」学問分野は演劇である。それは演劇や上演の文脈で扱われることもあるし、映画研究のような分野で扱われることもありうる。

そうであれば、この議論の出発点となった不器用な問いに立ち戻るなら、シェイクスピアを教えることに関して「べき」は一つしかないのかもしれない。中等教育であれ高等教育であれ、正規のカリキュラムの一部であれ課外活動であれ、アフリカであれ世界のほかの地域であれ、シェイクスピアとの出会いの核心には、上演のもつ魔力が残されるべきである。

この記事は当初 The Conversation に掲載されました。

この記事は Mail & Guardian Africaとの協力により掲載されています。掲載は、世界経済フォーラムによる見解の支持を意味するものではありません。

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著者:Chris Thurman は Mail & Guardian Africa に寄稿しています。

写真:俳優 Dominic Rowan(左)と Miranda Raison が、ロンドンのグローブ座で2010年7月6日に上演されたシェイクスピア作『ヘンリー八世』で、それぞれヘンリー八世とアン・ブーリンを演じている。REUTERS/Luke MacGregor

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