テロリストは宗教のために殺すのではない。その理由はまったく別のところにある

Floral tributes lie on the ground after a vigil to remember the victims of the attack on London Bridge and Borough Market, at Potters Field Park, in central London, Britain, June 5, 2017. REUTERS/Marko Djurica - RTX395SM
Floral tributes to victims of the terror attack on London Bridge and Borough Market in June 2017Image: REUTERS/Marko Djurica
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テロ対策といえば、軍事的な解決策が数多く挙げられる。一方、国連はこのほど、パートナーシップ構想を歓迎した。Facebook、Microsoft、Twitter、YouTubeといったテクノロジー大手と連携し、オンライン上のテロ対策を進める取り組みだ。

しかし、西側諸国を標的とした一連の最近のテロ攻撃について詳細が明らかになるなか、暴力的過激主義に対抗するための、より人間を中心に据えた解決策やアプローチを見落としているのではないだろうか。

最近の攻撃は、自らをイスラム教徒の殉教者とみなす過激主義者に共通する特徴を浮き彫りにしている。一部の分析者は、イデオロギーの領域を超えて調査対象を広げ、たとえば人口統計上の共通点を探ったり、家庭内暴力の類型を論じたりしているが、人間のある特性はほとんど検討されていない。羞恥心である。

警察官を撃ち、銃を突きつけて奪った車で高速道路を暴走した後、ジエド・ベン・ベルカセムは父親に電話をかけた。「父さん、どうか許してくれ。取り返しのつかないことをしてしまった」と懇願した。その後、彼はオルリー空港に向かい、兵士の頭に銃を突きつけてこう宣言した。「アッラーの名のもとに死ぬためにここへ来た。(中略)死者が出るだろう」

精神面における矛盾

ベルカセムには、麻薬の密売、武装強盗、窃盗、盗品の受け取りなど、数々の犯罪歴があった。死後の毒物検査では、血液中からアルコール、大麻、コカインが検出された。ベルカセムは、この有害な道徳的矛盾を強く自覚し、深く居心地の悪さを感じていた可能性がある。

最近マンチェスター・アリーナで自爆テロを起こしたサルマン・ラマダン・アベディは、頻繁にパーティーに出かけ、ウォッカを飲み、マリファナを吸っていた。友人たちの証言によれば、そうした習慣は、周囲とのつながりを失った欧州の移民二世として感じていた文化的疎外感、つまりリビア人としても英国人としても十分ではないという感覚に対処する助けになったとも考えられる。また、宗教的な家庭に育った彼にとって、酒や薬物は逆説的に羞恥心を和らげると同時に強めていたとも推測できる。

昨年夏、モハメド・ラフアエイ・ブーレルは、トラックでニースの革命記念日パレードに突っ込み、86人を殺害することで「ISISの呼びかけに応えた」。多くの人が想像するような、信仰に篤く実践に励むイスラム教徒とは程遠く、豚肉を食べ、酒、薬物、乱れた性関係を好んでいたことが、警察の収集した証拠から明らかになっている。相手は男性も女性もいた。

聖戦を唱える自爆攻撃者の生活様式とは思えない。アイデンティティの葛藤に耐えがたい羞恥心が重なり、過激な自己犠牲を求める決断を促しているように見える。

イスラム教で最も神聖な月であるラマダンの期間中、サウジアラビアでも当局は最近、自爆攻撃を阻止した。標的とされたのは、イスラム教で最も神聖な場所とされるメッカのマスジド・ハラーム(聖モスク)で、年間1,500万人の巡礼者が訪れる。

イスラム教徒、さらには過激なイスラム教徒がテロリストだという固定観念を、ここで打ち砕こう。罪のない人々を殺すことは、宗教だけでなく人類に対する犯罪である。

「チップさえろくに払わなかった」

9・11のハイジャック犯は、この両極性を象徴している。クリストフ・ロイターは2002年に出版した自爆テロに関する著書で、過激主義者たちが西洋文化に向き合う際に、二つの極端な側面を体現していたと述べた。欲望をかき立てる考えから身を守ろうと、彼らはフロリダ州のモーテルの部屋の壁に掛かっていた半裸の女性の写真にタオルをかけた。一方で、ペイ・パー・ビューのポルノ映画をむさぼるように見ていた。

ロイターによれば、彼らはアメリカのマフィンに豚脂が入っているかもしれないとして表面のアイシングを削り落とす一方、賭博や飲酒、ラップダンスに興じていた。また、イスラム教徒に広く見られる寛大さとはまったく相いれないことに、伝えられるところではチップさえろくに払わなかった。比較的矛盾が少ない話としては、ハイジャック犯の一人モハメド・アタが、ハンブルクで定期的に呼んでいた売春婦を殴っていたと報じられている。

テロ組織の指導者アブ・ムサブ・ザルカウィもいた。入れ墨があり、片脚を失い、イラクのアルカイダの大物だった彼は、悪名高い売春斡旋業者で、ならず者、大酒飲み、麻薬中毒者だった。37件の刑事事件を抱えていた彼は、イスラム教に立ち返った。宣教師の一団に、自らを清める時が来たと説得された後のことだった。

罪人から勝者へ

より良い暮らしを求める人々を食い物にする人身売買業者と同じように、過激主義者の言説は、より良い来世を約束して殉教を後押しする。そこには、浄化、救済、贖罪をもたらし、羞恥心や自己嫌悪を終わらせる楽園への切符が掲げられている。

栄光を手にするか、取るに足らない、あるいは罪深い自殺者の統計の一例として片づけられるか。その選択を前にすれば、攻撃者が自己肯定を得られるという見込みに心を奪われる理由は想像に難くない。惨めで葛藤に満ちた人生も、より意味深い殉教者の栄誉の証へと、表面的に塗り替えられる。

これはイスラム教に限った話ではない。ダレン・オズボーンは、ロンドン在住で、バンを運転してイスラム教徒の礼拝者に突っ込んだ人物であり、今年6月にフィンズベリー・パーク・モスク付近で事件を起こす数週間前に自殺を図っていたと、姉妹が証言している。道徳的な憤りを示す「英雄的な」行為と、「自分にできることをする」という断固たる姿勢によって、平凡な生と死は特別なものへと変えられた。その行為とは、イスラム教徒を皆殺しにすることだった。

戦術そのものには対処できないとき

暴力に対する短絡的な反応が広がるなか、テロリズムは一つの戦術であることを忘れないようにしたい。それは特定の集団やイデオロギーに属するものではなく、どのような目的にも利用されうる。人々を暴力的過激主義へと向かわせる理由は多様で複雑であり、それぞれに応じた対処が必要だ。

死を望む人々の動機は、テロ組織に加わるよう勧誘された人々の動機とは異なる。後者の場合、ダーイシュ(ISIS)のような集団に引きつけられるのは、地位を求める個人的な思い、アイデンティティや帰属意識、目的意識や自己肯定感を得たいという気持ちからである可能性が高い。そう考えると、社会的、経済的、政治的な包摂は、軍事的な対テロ措置よりもはるかに強力な解毒剤となりそうだ。

もちろん、包摂は死を望む人々の助けにもなりうる。しかし、殉教を個人や社会への不満に対する正当な手段とする誤った物語を正し、取り戻すことのほうが、より大きな効果をもたらすかもしれない。

有望な例の一つは、イスラム教のイマームたちが拒否したことだ。それは、最近のロンドン橋襲撃事件の実行犯の死者に対し、伝統的な祈りを捧げることだった。彼らは「弁護の余地のない攻撃者」は真のイスラム教徒ではないと主張した。こうした慣行が広く定着すれば、聖なる死という考えをめぐる曖昧さが解消され、本来なら正当化されかねない自爆攻撃を抑止できるだろう。

同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのは、イスラム教のイマームや聖職者が、自分自身にも他者にも、より大きな節度、寛容、思いやりを説くことだ。

テロリズムは一つの戦術であり、それに対して戦争を仕掛けることはできないと認識するのが賢明だ。代わりに、過激な行動の社会的、感情的な理由に目を向ける必要がある。必要なのは、人間を中心に据え、内面から始めるアプローチである。

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