先週、クイーンズ大学のビデオゲーム音楽の授業で、一人称視点シューティングゲーム(FPS)を取り上げた。予想どおり、議論はビデオゲームの暴力について、そして「没入する」とは実際にはどういうことなのかにも及んだ。
学生たちは、没入には感情と想像力の両方が関わると指摘した。また、彼らにとって没入の重要な要素は、「現実から逃れ、現実から解放される」感覚を生み出すことだとも述べた。
ビデオゲームの暴力に反対する人々は、ゲームをする人はしない人より暴力的だと考えている。プレイヤーはゲーム内で暴力的な行為を再現するため、現実でも同じことをするようになるというのだ。たとえば、米ケンタッキー州知事のマット・ベビンは先週、こう述べた:
私は合衆国憲法修正第1条と表現の自由を強く支持していますが、暴力に関してあまりにも生々しいものもあります……こうしたものが公に出回ることに何の利点もありません。ましてや、若者たちの心や手、家庭に入り込むことなど……(こうしたゲームは)人々の虐殺を賛美しています。学校で生徒たちがしているのとまったく同じことを再現し、それを行うと得点できるゲームがあります。そこでは、地面に倒れて命乞いをしている人にとどめを刺すと、追加点がもらえるのです。
こうしたゲームの多くは趣味が悪いと見なされるかもしれないが、暴力的なゲームが現実の暴力を引き起こすかどうかを調べた研究の結果は、せいぜい一貫していない。
「没入の誤謬」とは何か?
プレイヤー自身がビデオゲームを現実からの逃避や解放と捉えているのに、なぜゲームを現実と混同するのだろうか。研究者のケイティ・サレン・テキンバシュとエリック・ジマーマンは、著書『Rules of Play』の中で、ビデオゲームや、何をもって没入とするかについての私たちの理解には、大きな欠陥があると論じている。
ビデオゲームのプレイヤーが、ゲームをしていることを忘れる状態に達しうるという考えは、よくある誤解だ。サレンとジマーマンはこれを「没入の誤謬」と呼ぶ。つまり、プレイヤーがゲームの「現実はあまりにも完全で……プレイヤーが自分は想像上の世界の一部だと本当に信じる」ほどだと考えるのは、誤りである。
むしろ、サレンとジマーマンによれば、プレイヤーは「遊びの状況が人工的なものであると十分に承知している」。実際、この人工性こそ、ゲームをとても楽しいものにしている要素の一つだ。
例を見てみよう。
次の場面は『Battlefield 1』(2016年)のものだ。第一次世界大戦を舞台にした一人称視点シューティングゲームで、プレイヤーの行動と交流のあり方は複数の役割の間で切り替わる。プレイヤーは戦車を操縦して敵に砲撃するところから始めるが、戦車が泥にはまると、すぐに敵との近距離戦になる。
プレイヤーが戦車に閉じ込められると、不穏で輪郭の曖昧な音楽が始まるが、銃声が場面を圧倒する。やがて、銃声でキャラクターの耳が聞こえなくなる。銃撃の環境音が静まり、背景に流れる音楽が明らかになる。トランペットとトロンボーンの強い響きが、軍隊を思わせる雰囲気を生み出している。
プレイヤーが伝書バトを放つと、操作するキャラクターが切り替わる。ゲームプレイのスタイルが完全に変わるため、プレイヤーはこの変化をはっきり認識する。今度の役割は、ハトを目的地まで飛ばすことで、文字どおり鳥の目線から世界を見ることになる。
音楽のスタイルも大きく変わる。戦車内の息苦しく暗い雰囲気を描く、打楽器のように響く銃の撃鉄の音や低音域の金管楽器、弦楽器から、鳥の飛行に合わせた穏やかで静かなピアノの旋律へと移り変わる。
鳥は目的地以外のことには気づかない。飛行中の音楽は、澄んだシンプルな和音で、その自由を謳歌しているように感じられる。ここでも、その雰囲気は下に閉じ込められた兵士たちとは対照的だ。鳥が着地すると、音楽は再び、先ほどの不穏な金管楽器の高まりと、より混沌としたリズムに戻る。
『Battlefield 1』はプレイヤーから没入感のあるゲームとよく評される。しかし、没入を、プレイヤーが信じていること、つまりゲームが現実だと信じることに基づいて理解するなら、プレイヤーは第一次世界大戦時代の兵士になりきっていることになる。そのような状況では、鳥の目線への切り替わりは唐突で、プレイヤーの没入感を壊してしまうだろう。
学生たちは、鳥になるとすぐに音楽が劇的に変化することに気づいた。この点はオンラインのプレイヤーたちも指摘している。この音楽の対比――より柔らかく旋律的な音楽と、明るい空への切り替わり――が、飛行中の安らぎをいっそう強める。暗い戦車内の環境との対比は、鳥であることがもたらす異質さをさらに際立たせる。
サレンとジマーマンによれば、「プレイヤーは常に自分がプレイしているとわかっている」ため、さまざまな役割の間を自由に行き来できる。プレイヤーはこの柔軟さを受け入れ、「没入する瞬間に入り込んだり、そこから抜け出したりして、プレイヤーとキャラクターの枠組みを行き来する。」
言い換えれば、プレイヤーは自分が架空の世界で遊んでいることを十分に理解しており、そのフィクションが現実では得られない体験や視点をもたらしうることもわかっている。戦争ゲームの最中に鳥としてプレイするという、視点の切り替わりと予想外の展開が柔軟性を生み、ハトの場面を非常に効果的なものにしている。そして、ゲームのこの場面への感情的な反応を高める、劇的な対比を生み出している。
プレイヤーはゲームが現実ではないとわかっている
一般の人々が没入について混乱しているのも不思議ではない。ゲーマーでさえ「没入」の意味を一貫して理解しているわけではない。部分的には、この言葉を二つの異なる意味で使っているからだ。
経験談としては、ゲーマーはこの言葉をゲーム世界の奥深さや細部の豊かさを指して使うことが多いが、口語ではゲームがどれほどやみつきになるかを指すこともある。この曖昧さは、没入をどう測定するかを検討した2008年の研究でも、『International Journal of Human-Computer Studies』で取り上げられている。
プレイヤーは、熱中してプレイした『テトリス』に「完全に没入していた」と語るかもしれない。しかし、それは、ロシア民謡が流れるなか、四つの正方形でできたブロックにいつ潰されるかわからない世界に自分がいると信じている、という意味ではない。
ゲーマーは『Skyrim』について、独自の政治や宗教、さらには文学まで備えた、没入感のあるゲーム世界だと語る(『Skyrim』で見つけた本を読むのは、驚くほど楽しい)。しかし、『Skyrim』の魅力の一部は、そのゲーム世界ならではの特徴にある。魔法を使い、宝探しをし、人間以外の種族としてプレイできるのだ。
プレイヤーがゲーム内のほとんどの行動を完了するために頻繁に開くテキストメニューは、冒険を進める助けになる。画面に常に表示されるメニューは、これが決して現実ではないことを、はっきりと繰り返し思い出させる。
ここ数週間、学生たちとゲームの筋書き、映像、音楽の相互作用を探ってきたなかで、効果的なゲームプレイを生み出すのは、実際には現実からの逃避なのだという確信が強まっている。サレンとジマーマンが論じるように、「プレイ中に生じる多層的な心の状態は、抑え込むのではなく、称賛されるべきものだ……。」
優れた本や映画が、観客に独自の視点を与える世界の枠組みを提供するように、ゲームは想像力のための枠組みを与えながら、あくまでフィクションであり続ける。

