私は、政治が重すぎて記憶があまりにも短い国の出身です。トルコでは時間が猛烈な速さで流れています。週から週へ、日から日へと、あらゆるものが変わっていきます。少なくとも、内側にいると、そう感じられるのです。国際的な観察者たちは、トルコの複雑さを理解できないとしばしば不満を漏らします。しかし、地元の人々もまた、時に同じくらい戸惑っていることを、彼らは知りません。私の国は液状の国です。絶えず流れ、進化し、なりつつある国です。まだ、なりきってはいません。可能性に開かれたその感覚は、もしそれほど不安を掻き立てるものでなかったならば、胸を躍らせるものだったかもしれません。
日々の政治の喧騒があまりにも激しいため、社会生活や文化生活の多くの側面が、霧にかき消される囁きのように、ほとんど知らず知らずのうちに抑え込まれています。トルコの政治は重苦しいものです。また、対立的で、男性中心的で、攻撃的に感情的で、深く分極化しています。私はボスポラス海峡沿いを散策し、渦を巻く霧を眺めながら、私の声、私たちの声が、どうすれば海を越えて他の岸辺へ、他の人々の人生へと届けられるのだろうかと考えます。同様に、遠く離れた場所に生きる人々の物語や現実が、私たちの世界の一角にどうすれば届くのだろうか、と。そんなとき、私は何度でも文学に立ち返ります。そこには国境がないからです。
物語を語るという古く普遍的な芸術は、国家、宗教、階級、民族の境界に閉じ込められるものではありません。アイルランドの作家コルム・トイビンが描く場所が、イスタンブールの街路と同じくらい馴染み深く感じられたことが、幾度もありました。また、イスラエルの作家アモス・オズが書いたテーマが、驚くほど身近に感じられたこともありました。物語は、見えないものを見えるようにし、距離を縮めます。文学は、人々を共同体やカテゴリーに分けることとは無縁です。むしろその正反対であり、つながりに関するものなのです。
小説は、他のどの創作形式よりも、孤独に基づいています。小説家は本を書く間ひとりであり、読者もまたそれを読む間ひとりです。そこで私たちは出会います。個人性と内省だけの領域、つまり集団的アイデンティティが存在しない場所で、たとえそれが数時間や数日だけであっても。小説は私たちを世界中の旅へと連れ出すように見えるかもしれませんが、実際には内なる旅へと導きます。私たちは、ある人の立場に身を置き、次に別の人の立場に身を置きます。見知らぬ人や異邦人を発見するとき、私たちは自分自身について学びます。カテゴリーはその激しさを失い始めます。フィクションの世界には、ギリシャ人もトルコ人も、ムスリムもユダヤ人もいません。人間という小宇宙こそが、私たちの主要な関心事です。人間から幾重にもわたるアイデンティティの政治を剥ぎ取ってしまえば、人間の魂を理解することはより容易になります。スーザン・ソンタグが言ったように、良い文学は私たちの心を教育するのです。
政治は本質的に二項対立に基づいています。「私たち」と「彼ら」の区別が必要であり、「私たち」は「彼ら」より優れているという前提があります。トルコのように、多元的民主主義が十分に内面化されておらず、表現の自由も十分に保障されていない国々では、「私たち対彼ら」の対立は常により鋭くなります。一方、文学には「彼ら」がありません。物語を語る芸術において、他者は存在しません。他者とは私のことなのです。
ですから、作家と政治家は、最初から、たとえ正反対ではないにせよ、異なる言語を話しています。したがって、小説家に自国について尋ねれば、政治家に尋ねた場合とは異なる全体像が得られるでしょう。後者は、自分が何をどのように見ているかを語るでしょう。前者は、見ることのできないものを明らかにするでしょう。後者は、自分が何をどのように聞いたかを伝えるでしょう。前者は、物語だけでなく沈黙をも語ってくれるでしょう。
エリフ・シャファク氏は受賞歴のある小説家であり、トルコで最も広く読まれている女性作家です。氏は 世界経済フォーラム2014年年次総会(ダボス・クロスターズ)に 参加しており、また 世界経済フォーラム「社会における芸術の役割」グローバル・アジェンダ評議会の一員でもあります。
写真:イスタンブールのボスポラス橋の向こうから太陽が昇る。同橋は市の欧州側とアジア側を結んでいます。REUTERS/Murad Sezer
