スイスとデンマークの測量隊がこの「幽霊島」現象を調査し、島は実際には氷山だったことを発見した。
数十年にわたり、北極圏北部ではほかにもいくつかの小島が発見されては、忽然と姿を消していた。
1930年代、ツェッペリン飛行船に乗った国際的な科学者チームは、発見した島々を地図に反映し、この地域の地図を描き直した。
2021年、氷に覆われたグリーンランド北岸沖で探査隊が、未記載と思われる島を発見した。小さく、砂利に覆われたこの島は、世界で知られている最北端の陸地の候補とされた。発見者たちはこれをQeqertaq Avannarleqと名付けた。グリーンランド語で「最北の島」を意味する。
しかし、この地域には謎があった。モリス・ジェサップ岬のすぐ北では、数十年にわたってほかにもいくつかの小島が発見されては、姿を消していた。
一部の科学者は、海氷に押し上げられた岩礁ではないかと考えていた。
しかし、スイスとデンマークの測量隊が北へ向かい、この「幽霊島」現象を調査したところ、まったく別のものを発見した。彼らは調査結果を発表したのは2022年9月のことだった。姿を現しては消えるこれらの島は、実際には海底に接地した巨大な氷山だったのだ。おそらく近くの氷河から流れ出たもので、地滑りの土砂に覆われた別の新しい氷山も、流れ出す時を待っていた。
北極圏の高緯度地域でこうした消失が起きたのは、また、地図から陸地を消す必要が生じたのは、これが初めてではなかった。ほぼ1世紀前、画期的な航空探検がバレンツ海の広大な海域の地図を描き直した。
1931年、ツェッペリン飛行船からの眺め
1931年の探検は、米国の新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが、世間を驚かせる宣伝計画を立てたことから始まった。
ハーストは、グラーフ・ツェッペリン号(当時、世界最大の飛行船)を北極点まで飛ばし、氷の下を航行する潜水艦と合流させることを提案した。実行上の難題に直面してハーストは計画を断念したが、北極圏高緯度地域の地理・科学調査にグラーフ・ツェッペリン号を使うという構想は、国際極地科学委員会に引き継がれた。
委員会が計画した航空探検では、先駆的な技術を活用し、北極圏で地理、気象、地磁気に関する重要な発見を目指した。その成果には、バレンツ海の大部分の地図を描き直したことも含まれる。
この探検は「ポラールファールト」と呼ばれた。ドイツ語で「極地の旅」を意味する。当時の国際的な緊張にもかかわらず、飛行船にはドイツ、ソ連、米国の科学者や探検家が乗り込んだ。
乗船者の中には、リンカーン・エルズワースがいた。裕福な米国人で、北極探検の経験も豊富な彼は、ポラールファールトとその地理的発見について初の学術的な記録を著すことになる。重要なソ連の科学者も2人参加した。優れた気象学者のパーヴェル・モルチャノフと、探検隊の主任科学者ルドルフ・サモイロヴィチである。サモイロヴィチは地磁気の測定を行った。気象観測を指揮したのは、ライプツィヒ大学地球物理学研究所所長のルートヴィヒ・ヴァイクマンだった。
探検の記録係を務めたのは若きジャーナリスト、アーサー・ケストラーだった。後に彼は、全体主義が自らの党に忠実な者たちにも牙をむく様を描いた反共小説『真昼の暗黒』で有名になる。
5日間の旅で、探検隊はバレンツ海上を北へ進み、北緯82度まで達した後、東へ数百マイル進み、南西へ戻った。
ケストラーは短波無線で毎日報告を送り、その内容は世界各地の新聞に掲載された。
「すばやく、静かに、力を使わず上昇する、というより空へ向かって落ちていくような体験は、美しく、心を酔わせる」とケストラーは1952年の自伝に記した。「……地球の重力に縛られた状態から逃れたという、完全な錯覚を抱かせてくれる。」
「私たちは北極の空中に数日間とどまり、時速平均60マイルというゆったりした速度で進んだ。写真測量を行ったり、小さな気象気球を放ったりするため、空中でしばしば停止した。そこには、スピードボートの時代に最後の帆船で旅するのにも似た、魅力と静かな高揚感があった。」
「存在しないことの不都合」
ポラールファールトが通過した高緯度地域は、きわめて人里離れていた。19世紀後半、オーストリアの探検家ユリウス・フォン・パイヤーは、バレンツ海にある約200の島々からなるフランツ・ヨーゼフ・ランドの発見を報告したが、当初はその存在を疑う声もあった。
ポラールファールトはフランツ・ヨーゼフ・ランドの存在を確認した一方、初期の北極探検家たちが作成した地図に、驚くほど大きな不備があることも明らかにした。
探検に備え、グラーフ・ツェッペリン号には広角カメラが装備され、眼下の地表を詳細に撮影できた。ゆっくり進む飛行船はこの目的に理想的で、固定翼機の上空通過では不可能な、時間をかけた測量を行えた。
「7月27日の残りの時間は、フランツ・ヨーゼフ・ランドの地理測量に費やした」とケストラーは記している。
「最初の目標は、アルバート・エドワード・ランドと呼ばれる島だった。だが、言うは易く行うは難し。アルバート・エドワード・ランドには、存在しないという難点があった。北極の地図にはどれにも載っていたが、北極の実際の場所にはなかった……」
「次の目標はハームズワース・ランド。妙な話だが、こちらも存在しなかった。あるはずの場所にあったのは、黒い極海と白いツェッペリンの影だけだった。」
「地図にこれらの島を載せた探検家(おそらくパイヤーだろう)が、蜃気楼に惑わされて氷山を陸地と見間違えたのかどうかは、神のみぞ知る……いずれにしても、1931年7月27日付で、これらの島は正式に地図から消された。」
探検隊はさらに6つの島を発見し、多くの島の海岸線も描き直した。
大気を測る画期的な方法
この探検が注目された理由の一つは、モルチャノフがグラーフ・ツェッペリン号で試験した計器だった。そこには、新たに発明した「ラジオゾンデ」も含まれていた。彼の技術は気象観測に革命をもたらし、今日、私のような大気科学者が頼りにする計器の開発につながった。
1930年まで、気象学者にとって大気上層の気温を測ることは非常に困難だった。
当時使われていたのは、いわゆる記録式ゾンデで、気象気球を使って気温と気圧を記録した。針が紙などの媒体に連続した線を描く仕組みだったが、記録を読むには、落下後のゾンデを回収する必要があった。通常、ゾンデは放球地点から何マイルも流されてしまう。北極圏のような遠隔地では、特に実用的ではなかった。
モルチャノフの装置は、気球の飛行中、気温と気圧を頻繁に無線で送信できた。現在、気球搭載型ラジオゾンデは世界の数百か所の観測所で毎日打ち上げられている。
ポラールファールトは、モルチャノフにとってこの技術を華々しく実証する機会となった。グラーフ・ツェッペリン号は通常、大気の高度数千フィート以下を飛行したが、より高く上昇する気象気球を放つための足場にもなった。気球は上層大気で、遠隔からデータを送る「ロボット」として機能した。
モルチャノフが水素を充填した気象気球により、極付近の成層圏気温が初めて観測された。驚くべきことに、高度10マイルでは、極の空気は赤道よりも実際にはるかに暖かいことを彼は発見した。
主要人物たちの運命
ポラールファールトは、1930年代初頭における国際的な科学協力の最後の輝きだった。この時期には、権威主義的な政治と国際紛争が壊滅的に拡大した。1941年までに、米国、ソ連、ドイツはすべて戦争状態となる。
モルチャノフとサモイロヴィチはスターリンの秘密警察の犠牲となった。ハンガリー系ユダヤ人だったケストラーも、時代の政治に人生とキャリアを脅かされることになる。最終的に英国に逃れ、小説家、エッセイスト、そして科学史家として活躍した。
グラーフ・ツェッペリン号は、主に大西洋横断便で商業旅客運航を続けた。しかし、歴史に残る最も象徴的な悲劇の一つが、まもなくツェッペリン飛行船の時代に幕を下ろした。1937年5月、グラーフ・ツェッペリン号の妹分にあたるヒンデンブルク号が、ニュージャージー州に着陸しようとした際に炎上した。グラーフ・ツェッペリン号は、ドイツの戦争遂行に必要な金属くずを提供するため、1940年に解体された。









