地中海を越える移住は今に始まったことではない。かつては人々が反対方向へ向かっていた

Migrants disembark Italian coast guard vessel "Diciotti" as they arrive at the port of Catania, Italy, June 13, 2018. REUTERS/Antonio Parrinello - RC1C6AA31A60
In the past though, people were much more likely to head from north to south.Image: REUTERS/Antonio Parrinello
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極右政党「同盟」の党首マッテオ・サルヴィーニがイタリアの新内相に任命され、地中海をめぐる移民問題では早くも対立が表面化した。イタリアが初めて、海上で救助された移民を乗せた船の入港を認めなかったのだ。欧州連合(EU)内では移民政策をめぐる膠着状態が深まり、対立はいっそう激しさを増している。同様の対立はさらに2隻の船をめぐっても続いた。

ヨーロッパで移民をめぐる公論に広がる人種差別的な言説は、二つの誤った前提を中心に展開しがちだ。移住は新しい現象だという前提と、歴史的に地中海は「分断」されており、貧しい南岸から豊かな北岸へ人々が移動してきたという前提である。

移住は地中海の歴史の中心にあり、両岸の交流には豊かな伝統がある。近世、すなわちおよそ16世紀から18世紀にかけては、今日と同じように、人々の移動が活発で多様だった。

この近世の時代には、より良い暮らしを求めたり、宗教的迫害から逃れたりするために、主にヨーロッパの人々がアフリカや中東へ渡った。この傾向は19世紀に強まった。1830年代以降、スペイン、マルタ、イタリア、フランスの貧しい農民たちが大挙して北アフリカへ移住した。イタリアからの移住は20世紀初頭の数十年間にピークを迎え、年間平均12,770人が国外へ移住した。

移住の理由

近世に地中海を渡った人々の多くは、戦争や政治的・宗教的迫害から逃れるため、本人の意思に反して移動した。今日でいう「宗教難民」の最も劇的な事例は、1492年にスペインから何千人ものユダヤ人とイスラム教徒が追放されたことだ。追放されたユダヤ人は、当時オスマン帝国のスルタンが支配していたギリシャ、イタリア諸邦、北アフリカ、中東各地に再定住した。近世を通じて、ユダヤ人は南へ移り、ヨーロッパで頻繁に受けた迫害から逃れるため、オスマン帝国の領土へ向かった。

強制移住のもう一つの形は、人身売買に関係していた。古代からこの地域を横断していた奴隷貿易のルートによって、アフリカ人奴隷がヨーロッパやオスマン帝国の領土へ連れてこられた。スペイン、北アフリカ、イタリア、パレスチナの沿岸住民も、頻繁に起きた海賊襲撃で捕らえられ、その後売られて奴隷にされた。さまざまな大きさの船は、海賊や私掠船の格好の餌食となり、その結果、多くのイングランド人やオランダ人が捕らえられ、奴隷となった。

自らの意思で地中海を渡る人々もいた。この地域では昔から、兵士、巡礼者、外交官、旅行者が絶えず行き来してきた。今日と同じように、男女はより良い暮らしを求めて移動したが、近世にはその流れの大半が地中海の北岸から南岸へ向かっていた。

近隣の人々を知る

かつてヨーロッパの人々は、新参者に多くの機会をもたらす土地、オスマン帝国へと移り、富を求め、司法から逃れ、あるいは社会的地位の向上を目指した。その中には成功を収めた者もいた。地中海の歴史には、数多くの事例がある。イタリア人やイングランド人をはじめ、さまざまな国の人々が北アフリカの諸政権や、現在のイスタンブールにあたるコンスタンティノープルで要職に就いた。

理由が何であれ、オスマン帝国領への移住は必ずしも個人的なつながりを断つことを意味しなかった。1591年、ヴェネツィア出身の若い女性、ベアトリーチェ・ミキエルは船に乗り、兄のガザンフェルがいるコンスタンティノープルへ向かった。幼い頃に奴隷となり、オスマン宮廷で教育を受けた彼は、スルタンの信頼厚い臣下となり、オスマン帝国の階層を上り詰めていた。コンスタンティノープルで過ごした20年間、ガザンフェルはヴェネツィアにいる母と妹との連絡を絶やさず、やがて二人も彼のもとへ移ることを決めた。

オスマン帝国の領土に定住した人々からの手紙、身代金を払って帰国した奴隷の話、商人や旅行者の見聞も、「隣人」についての物語や考えを広める一助となった。17世紀のヴェネツィアで語り継がれた話の中でも、特に有名だったのがロクセラーナの物語だ。彼女は現在のウクライナにあるロハティンで生まれたキリスト教徒の奴隷の少女で、ヒュッレム・スルタンの名でスレイマン大帝の妻となった。こうした物語は人々の好奇心をかき立て、海を渡りたいという思いを強めた。

物品や工芸品、食べ物も行き交った。16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの上流階級はトルコ文化に魅了された。オスマン風のファッションが流行し、音楽や建築、工芸品にも影響を与えた。

近世には、外国人の到着に関する規則、国境管理、受け入れ政策は地中海各地で大きく異なっていた。当局はしばしば、きわめて実利的な姿勢を示した。オスマン国家は15世紀と16世紀にユダヤ人難民を受け入れ、その技術力や交易網を活用しようとした。

Image: ルイス・テイシェイラ『ポルトラン海図』、リスボン、1600年頃、Wikimedia Commons経由。

19世紀の国民国家イデオロギーがまだ生まれていなかった時代には、「市民権」や出身地よりも宗教などの要因が、受け入れ政策で大きな役割を果たすことがあった。たとえば宗教改革の時代、教皇は教皇領内へのプロテスタントの到着や滞在を制限しようとした。オスマン帝国でも、宗教への帰属意識が統合政策を形づくった。各宗教共同体が、同じ信仰を持つ新来者への支援を担っていたためだ。

移住の方向の変化

地中海を北から南へ向かう移住の流れは20世紀まで続いたが、その後、方向が逆転し始めた。まず、ヨーロッパの植民地支配によって移動を余儀なくされた、北アフリカの貧しい農民たちの最初の流れがヨーロッパへ向かった。第二次世界大戦後の独立の波に続いて、植民地に定住していたヨーロッパ人が帰還した。その後1970年代には、労働力を必要とするヨーロッパ各国の政府が、地中海南岸からの労働者の受け入れを促した。

移住の流れがこのように方向を変えた背景には、17世紀に始まった経済的・政治的な動きがある。ヨーロッパの勢力拡大もその一つだ。こうした動きはやがて、地中海両岸の経済関係を塗り替え、その後の数世紀にわたり、中東と北アフリカをフランスやイギリスの工場向け原材料の供給地へと変え、植民地化への道を開くことになった。

これらのことから、移住の方向は不変ではなく、歴史的状況に左右されることがわかる。また、植民地化などの過程が地中海を越える移住のパターンに与えた影響も浮き彫りになる。

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