人口はわずか53万人なのに、ライプツィヒは経済停滞から脱し、ヨーロッパの都市の最前線へと飛躍した。
1989年、ライプツィヒはドイツ最大の公開デモの震源地となり、それがベルリンの壁崩壊に直接つながった。しかし共産主義からの移行期には深刻な打撃を受けた。ドイツ再統一後の6か月以内に、競争力のなかった工業部門の仕事の約96%が消失したとされる。イェーナには光学産業があり、ドレスデンには生き残ったマイクロエレクトロニクス産業があったが、ライプツィヒは近代的な産業基盤を一から築き直さなければならなかった。同市は、旧西ドイツ地域から自動車工場を誘致することに成功し、現在ではBMWとポルシェの大規模な工場がいずれも同市のすぐ北に立地している。2011年には、DHLがブリュッセル空港の業務をライプツィヒ/ハレ空港へ移転した。また同市は建設用クレーンの重要な生産地でもあり、中央ヨーロッパを代表するエネルギー取引所も置かれている。
ドイツ東端近くに位置し、神聖ローマ帝国時代にさかのぼる主要街道の交差点にあるライプツィヒは、常に交易の中心地であり、現在では国際見本市で貿易展示会や文化博覧会を開催している。製造業のほかにも、多くのソフトウェア企業を引き付けており、それらは世界水準の学校や大学の周辺に集積している。ライプツィヒ大学もまもなく600周年を祝う予定である。観光業も好調で、ニューヨーク・タイムズ紙の記事では、訪れるべき10の都市の一つとして紹介されている。
西ドイツからの多額の経済移転と、新しい道路、鉄道、そして改修された空港への投資の恩恵を受け、ライプツィヒは将来に向けた地位を確立しつつある。その成功の多くは、2人の市長の尽力によるものとされている。1990年から98年まで市長を務めたヒンリッヒ・レーマン=グルーベと、1998年以降の市長ヴォルフガング・ティーフェンゼーである。両名は、政党間の協力、市民参加、民間部門との協調を重視する都市運営の「ライプツィヒ・モデル」の立役者として評価されている。
その進歩を示すように、同市はドイツで最も住みやすい都市の一つに、さらにヨーロッパの都市の中でも、フローニンゲンやクラクフと並んで最も高い生活水準を誇る都市にランク付けされている。イノベーションのランキングでも好成績を収めており、失業率は2003年の18%超から2012年には10.8%未満へと低下した。
今日では洗練されたスタイルと文化の最先端を行く都市として知られ、ライプツィヒは「ハイプツィヒ」と呼ばれることもある。当地で作曲されたバッハやメンデルスゾーンの作品は、今もオペラハウスで演奏されている。同オペラハウスは、ヨーロッパで最初期に設立された音楽院の一つ(1843年建設)を擁している。また音楽・演劇大学では、ヘヴィメタルやインディーポップが生み出されている。
ライプツィヒは、旧計画経済圏の中規模都市であっても、優れたリーダーシップのもとで、新たな製造業、貿易、ソフトウェア、文化、観光産業を育成し、市民参加を促しながら企業と連携することで、大きな成果を上げられることを示している。
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執筆者:ステファニー・ハイアー(マイクロソフト 新興市場ディレクター)およびオーランド・アヤラ(マイクロソフト 新興市場会長)
画像:1989年の歴史的なデモから20周年を記念する催しで、ドイツ東部の都市ライプツィヒにおいて、「Leipzig 89」を象った蝋燭に火を灯す人々(2009年10月9日)。REUTERS/Tobias Schwarz


