GDPは成功の尺度としてどこが間違っているのか――5つの問題点

GDP is flummoxed by the Internet. Wikipedia provides all human knowledge free of charge, but in GDP terms, it is worth zilch
GDP is flummoxed by the Internet. Wikipedia provides all human knowledge free of charge, but in GDP terms, it is worth zilchImage: REUTERS/Gary Cameron
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国内総生産(GDP)の長所は、ひとつの数字で表せることだ。人間のあらゆる活動を、マッチ箱に押し込められたカエルのように、ほんの数桁に詰め込む。この気の毒な両生類のイメージが示すように、こうした圧縮こそがGDPの欠点でもある。人間として私たちが行うすべてのことの総計を、どうしてこれほど小さくまとめられるのだろうか。私たちの活動を、複雑で多面的で議論の分かれるウェルビーイングと、どうして同一視できるのだろうか。

GDPの考案者であるサイモン・クズネッツは、自らの指標はウェルビーイングとは無関係だと断言していた。それでも私たちは、この二つをあまりに頻繁に混同する。70年にわたり、国内総生産は世界のエリート層が頼る主要な数字だった。GDPで測った高い成長率は、それ自体が成功の証しとみなされ、成長の果実がどのように投資され、分配されるかは問われなかった。GDP成長を軌道に乗せるために、きれいな空気や公共サービス、機会の平等のどれかを犠牲にしなければならないなら、それもやむを得ないとされた。

GDPは国を順位づけ、その実績を評価する基準だ。何かを割るときの分母としてもよく使われる。国がどれだけ、どの金利で借り入れられるかも決める。しかし、人々も気づき始めているように、GDPはとうに賞味期限を過ぎている。どれほど優れた概念であっても、大恐慌と闘う手段として製造業の時代に考案されたこの指標は、複雑な現代経済について、妥当なシグナルを伝える力をますます失っている。

GDPの欠陥を指摘し、慎重ながらも代替案を提案することは、もはや議論を呼ぶものではない。フランスのニコラ・サルコジ元大統領は、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツが率いる委員会に、この問題の検討を依頼した。サルコジは、知識に確信を持つ専門家と、「データが語る物語と人生経験がまったくかみ合わない」市民との間に、危険な「相互理解の断絶」が生じていると述べた。

国内総生産(GDP)の「総(gross)」とは、何が総なのだろうか。

GDPは総量を表す数字だ。一定期間に生産されたものすべての総計である。製造された自動車、演奏されたベートーヴェンの交響曲、敷設されたブロードバンド回線が含まれる。一方で、海に漂うプラスチックごみ、侵入者警報器、渋滞に巻き込まれて消費されたガソリンも数えられる。

クズネッツは、あらゆる生産を同等に扱う指標に懸念を抱いていた。武器、金融投機、広告など、人々のウェルビーイングを損なうと考えたものは、加えるのではなく差し引きたいと考えていた。何を優先すべきかについて、異論もあるだろう。要点は、GDPが区別をしないことだ。世界全体のGDPから見れば、金正恩の核弾頭も病院のベッドやアップルパイと同じように評価される。

GDPの問題は、それだけなのだろうか。

いいえ。話し始めたら止まらない。このような短い記事ですべてを論じる時間はないが、いくつか挙げておこう。どれも私の著書で、さらに詳しく取り上げている。『成長の幻想――国家の豊かさ、貧困、ウェルビーイング』。

GDPは製造業の時代に生まれた。「足に落とせるもの」を測る指標だ。しかし米国のような先進国では、生産の最大80%がサービス業によるものだ。GDPはサービスをうまく測れない。量を測るのは得意だが、質の評価は苦手だ。近所のレストランで料理やサービスの質が向上しても、GDPは気づかない。航空会社の安全記録が改善しても同じだ。実際、GDPは飛行機事故を歓迎するかもしれない――新しい飛行機を造れるからだ。

GDPはインターネットに困惑する。自分で安い航空券を買い、オンラインでチェックインし、通路側の席を選べば、私の利便性は高まる。しかしGDPは下がる。私は自分自身の旅行代理店となる。かつてなら、GDPを生み出す正規雇用の従業員が担っていた仕事だ。ウィキペディアは人類の知識をすべて無料で提供する。GDPの観点では、価値はゼロだ。

GDPは総計を扱い、1人当たりGDPは平均を扱う。社会を不安定にする大きな要因が格差である時代に、GDPは分配について何も語らない。平均は誤解を招く。平均値より中央値のほうが適切だ。平均GDPが上昇しても、1%の人々が豊かになる一方で、99%が不満を募らせるなら、むしろ後退と言えるかもしれない。

GDPの観点では、規模は大きければ大きいほどよい。現実の世界では、必ずしもそうではない。金融部門がどんどん拡大した結果、金融危機に至った。米国の医療サービスが拡大し続けると、コストが制御不能になっているということだ。

一般に、GDPが測るのは現金を伴う取引だけだ。欧州では、これにヘロイン取引や売春も含まれる。一方、ボランティア活動、家事、高齢の親族の介護はまったく計上されない。GDPは優先順位をゆがめている。

貧しい国々では、インフォーマル部門はGDPからほとんど見えない。しかし世界の多くの地域では、経済活動の大半がインフォーマル経済によるものだ。学術研究によると、夜間光の衛星画像を使い、宇宙から経済活動を観測するほうが、地上でGDPを測るより正確かもしれない。

GDPは本当に富を測る指標として、それほど悪いのだろうか。

そもそもGDPは「富」の指標ではない。所得の指標だ。過去の一定期間に生産された財やサービスの価値を示す、後ろ向きの「フロー」指標である。来年も同じ量を生産できるかどうかは何も教えてくれない。それを知るには、富を測る貸借対照表が必要だ。企業には損益計算書だけでなく貸借対照表もある。国にはない。

原油価格が暴落する前、ナイジェリアは高値の石油を世界に盛んに売り、そのGDPは急上昇していた。しかし、富は減っていた。油田の資源は使い尽くされ、将来の所得を確保するための人的、物的、技術的能力に資金は再投資されなかった。そのことに注意を促せたのは、富の勘定だけだっただろう。

1月、世界銀行は1994年から2014年までの141カ国を対象とする、包括的な富についての画期的な研究を発表する。読む価値は十分にある。

GDPをその座から降ろすべきだろうか。

そうすべきだ。GDPは巧妙な指標であり、私たちに何かを教えてくれる。廃止すべきではない。政策手段としてあまりにも価値が高いからだ。そしてGDP成長は、私たちが人生で求めるほかのもの――健康、教育、安全、機会、財――を得るための手段にもなりうる。

全体像を描くため、すでに存在するものも、これから考案しなければならないものも含め、ほかの指標にももっと目を向ける必要がある。富、平等、余暇、ウェルビーイング、そして汚染などのマイナス要素を調整した純国内生産の指標が、出発点となる。

誰もが自分のお気に入りのデータを持っているだろう。私のお気に入りのひとつは睡眠時間で、仕事と生活のバランスやストレスの代理指標になるかもしれない。米国の睡眠時間は、1940年の約8時間から現在の6.8時間へと、着実に減少してきた。これなら、どう行動すればよいか私にもわかる統計だ。

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