経済学者が自由について考える必要がある理由

A labourer works on ground tiles outside a stadium in Shanghai January 16, 2007. REUTERS/Aly Song (CHINA) - RTR1L8VL
Pitting one aspect of freedom against another.Image: REUTERS/Aly Song
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不和を引き起こし、民主的な制度を損なうことを目的としたフェイクニュースやその他の政治的言論を制限すべきだろうか。肥満問題に対処するため、清涼飲料税を課すべきだろうか。競争条件を整え、すべての人に機会均等を保障するため、親が子どもに財産を引き継ぐ能力を制限すべきだろうか。

これらの問いはいずれも、望ましい結果を得るために自由を何らかの形で制限することを提案している。こうした問いの中には、自由のある側面(言論の自由、財産を譲渡する自由)を別の側面(民主主義、機会の平等)と対立させるものがある。

政治的言論を例にとると、有害な言論であっても制限すべきでないという議論の一つは、許容される言論と許容されない言論の境界を取り締まる役目を、誰にも安心して任せられないというものだ。政府にこの権限を与えれば、いずれ反対派を沈黙させるために使う可能性がある。これは説得力のある議論だが、政府が反対派を沈黙させることがなぜ問題なのか、さらに一歩踏み込んで考えることが大切だ。

そもそも、なぜ言論の自由が重要なのだろうか。その理由の一つは、思想の自由な市場が真実へと導くことであり、それは賢明な政策を選ぶうえで欠かせない。これは、道具的な正当化であり、この自由を、他の種類の財(たとえば、賢明な政策とそれがもたらす利益)との関係から説明するものだ。このように純粋に道具的に考えるなら、許容される言論の境界をどこに引くかという問いは、境界を取り締まる難しさを考慮しつつ、政策や発見などにもたらす言論の肯定的な影響と、有害な言論がそれらにもたらす否定的な影響との均衡をどう取るかという問いにすぎない。

しかし、道具的な正当化だけでは不十分だ。自分の見解を自由に表明できることは、充実した人生と良い社会を形づくる要素の一つである。自由な表現は、私たちが目指すべき目的の一つだ。自由にはまた、本質的な価値があり、他の結果とは別個に価値を持つ。

Image: ピュー・リサーチ・センター

自由に影響を及ぼす多くの政策を評価する際には、自由の道具的な費用と便益、本質的な費用と便益の両方を考慮すべきだ。自由の費用を評価するにあたっては、自由同士が衝突することもある点に留意する必要がある。言論の自由は、他の自由を制限するよう人々を説得するために使われることがある。私が自分の子どもを優遇する自由を持てば、それによってあなたの子どもの機会が狭まるかもしれない。一般に、自由を享受することはゼロサムではないが、反対に、常に双方に利益をもたらすわけでもない。誰もが同じ決定を下せるわけではなく、私が決めれば、あなたは決められない。たとえば投票によって決定を共有することはできるかもしれないが、その場合、すべてを自分で決めるときよりも私の裁量は小さくなる。ある面では、自由は希少である。一方で、すべての人の自由を広げる機会もありうる。

右派と左派の経済学者は長らく自由に関心を寄せてきた。自由は経済学の言説の一部でもあるが、主流派経済学の形式的な数学的枠組みには含まれていない。アマルティア・センをはじめとする社会的選択理論の研究者は、注目すべき形式的な貢献をしてきたが、こうした研究は、ほとんどの学生が経済学を学ぶ際に触れる主流派経済学のカリキュラムには含まれていない。つまり、まだ取り組むべき課題が残されている。

自由は、漠然としていて考察しにくい概念に思えるかもしれない。この投稿の残りでは、私の最近の論文や関連研究で形式化した推論の仕方を、読者に紹介したい。

述べたように、自由は希少である。それを確かめるため、選挙を考えてみよう。有権者はアン、ボブ、キャロルの3人で、候補者はクリントンとトランプだ。全員が結果を左右できるわけではないので、決定権をどう分かち合えばよいだろうか。選挙は多数決かランダム・ディクテーター制で実施できる。ランダム・ディクテーター制とは、各有権者が同じ確率で決定者に選ばれ、その決定者が勝者を選ぶ投票方式である。この二つの方式のうち、市民全体が結果に対して持つ決定権を最大化するのはどちらだろうか。

アンの立場から考えてみよう。ボブとキャロルは互いに独立して投票し、それぞれがクリントンかトランプを支持する確率は同じだとする。ランダム・ディクテーター制では、アンが決定者に選ばれたとき、つまり3分の1の確率で、アンの投票が結果を決める。多数決では、ボブとキャロルの意見が分かれたとき、つまり2分の1の確率で、アンの投票が結果を決める。したがって、自分の票が結果を左右する確率で決定権を測るなら(これはバンザフ・パワー*と呼ばれる指標だ)、アンの決定権は多数決のほうが大きく、ボブとキャロルについても同じことが言える。

強調したいのは、こうした考え方は選挙に限られないということだ。大小を問わず、人々の集団が決定権を分かち合わなければならない場面では、その決定権を効率的かつ公平に配分する方法を考えられる。

別の種類の例を考えよう。ジョーが自宅を30年間所有しているとする。ある開発業者が、ショッピングモールを建設するためにジョーの不動産を30万ドルで買いたいと申し出る。ジョーは同意する。では代わりに、ショッピングモールを建設するため、ジョーが不動産から強制的に退去させられ、補償として30万ドルを渡されたと想像してみよう。後者の状況は前者と同じだろうか。

結果という点では、二つの状況は同じだ。どちらの場合も、開発業者は30万ドルを支払い、ジョーは30万ドルを受け取り、ジョーの家は取り壊され、ショッピングモールが建設される。しかし、あらゆる点で同じというわけではない。最初の状況では、二つ目にはない決定権をジョーが持っている。断ることができるのだ。たとえ受け入れるつもりの申し出であっても、断る権利には価値がある。

ジョーは内心では不動産を30万ドルで手放してもよいと思っていながら、より高値を得るため、交渉ではもっと高く評価しているふりをするかもしれない。その偽りによって、双方に利益のある交換が妨げられる。これがジョーの不動産の収用を正当化するかどうかを考えるとき、不動産がジョーの手元と開発業者の手元のどちらでより価値があるかだけでなく、ジョーが自分の不動産、ここでは自宅に対してどのような権利を持つべきかも考える必要がある。

経済学は、財を最も高く評価する人に配分することに焦点を当て、人々の選好をどれだけ満たすかという観点から政策を評価する。こうした考慮は重要だが、話はそれだけではない。私たちの人生は、幸福かどうか、望みがかなうかどうかだけで価値が決まるのではない。何をするかを自由に決める創造的な主体であることにも価値がある。権利と自由をどう配分するかという問いは、人々の望みがどれだけ満たされているかという問いと同じくらい重要だ。公共政策の問いは必然的に実践倫理の問いであり、経済学が実践倫理に取り組むなら、選好の充足やウェルビーイングだけでなく、公平性や選択の自由も含む幅広い倫理的な語彙を用いなければならない。

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