本稿は、ウォルター・アイザックソン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』からの抜粋です。本書は世界経済フォーラム・ブッククラブの2月の課題書に選ばれました。毎月、新たな一冊を選び、グループで議論します。その後、月末最終日に著者が参加し、読者から寄せられた質問にいくつか回答します。
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レオナルド・ダ・ヴィンチは、婚外子として生まれた幸運に恵まれた。そうでなければ、少なくとも5世代にわたって家族の長男である嫡出子が就いてきたように、公証人になることを期待されていただろう。
一族のルーツは1300年代初頭にさかのぼる。高祖父のミケーレは、フィレンツェの西約17マイルにあるトスカーナの丘陵の町ヴィンチで、公証人を務めていた。イタリアの商業経済が発展すると、公証人は商業契約、土地売買、遺言書などの法的文書をラテン語で作成する重要な役割を担い、しばしば歴史的な言及や文学的な表現を添えた。
ミケーレは公証人だったため、「セル」という敬称を名乗る資格があり、セル・ミケーレ・ダ・ヴィンチとして知られるようになった。その息子と孫はさらに成功した公証人となり、孫はフィレンツェの宰相にまでなった。次の代のアントニオは例外的な人物だった。「セル」の敬称を用い、公証人の娘と結婚したものの、ダ・ヴィンチ家の野心は受け継がなかったようだ。人生の大半を、小作人が耕す一族の土地から得られる収益で暮らした。その土地で作られるワイン、オリーブ油、小麦は、いずれもわずかな量だった。
アントニオの息子ピエロは、その怠惰を埋め合わせるかのように、ピストイアとピサで意欲的に成功を追い求めた。そして1451年ごろ、25歳のときにフィレンツェで地位を確立した。その年に彼が公証した契約書には、勤務先として政府庁舎パラッツォ・デッラ・シニョリーアに面した「パラッツォ・デル・ポデスタにて」と記されていた(この司法官庁舎は現在、バルジェッロ美術館となっている)。彼は市内の多くの修道院や宗教団体、町のユダヤ人共同体、そして少なくとも一度はメディチ家の公証人を務めた。
ヴィンチに戻った折、ピエロは地元の未婚の農家の娘と関係を持ち、1452年の春に息子をもうけた。めったに使うことのなかった公証人の筆跡で、息子の祖父アントニオは、自分の祖父が所有していた手帳の最終ページの下部に誕生を記録した。「1452年:私の孫、息子セル・ピエロの子が、4月15日、土曜日、夜の第3時(午後10時ごろ)に生まれた。名はレオナルド。」
レオナルドの母親は、アントニオの出生記録にも、ほかの出生・洗礼記録にも、記す価値があるとは見なされなかった。5年後の納税記録からわかるのは、カテリーナというファーストネームだけだ。現代の研究者にとって、彼女の身元は長らく謎だった。20代半ばと考えられ、アラブ人の奴隷、あるいは中国人の奴隷だったのではないかと推測する研究者もいた。実際には、ヴィンチ周辺出身の孤児で、貧しい16歳のカテリーナ・リッピだった。レオナルドについては今なお新たな発見があることを示すように、オックスフォード大学の美術史家マーティン・ケンプとフィレンツェの史料研究者ジュゼッペ・パッランティは、2017年、彼女の背景を記録した証拠を提示した。
1436年、貧しい農夫のもとに生まれたカテリーナは、14歳で孤児となった。幼い弟とともに祖母の家に移ったが、その祖母も1451年、翌年に亡くなった。自分と弟の面倒を自ら見ることになったカテリーナは、その年の7月、当時24歳で名士として富裕だったピエロ・ダ・ヴィンチと関係を持った。
二人が結婚する可能性はほとんどなかった。ある先行する伝記作家はカテリーナを「高貴な血筋」と評したが、彼女は異なる社会階層の出身だった。ピエロはすでに、将来の妻となる相手と婚約していた可能性が高い。相応しい縁談の相手は、フィレンツェの有力な靴職人の娘で、アルビエラという16歳の少女だった。レオナルドの誕生から8か月以内に、ピエロとアルビエラは結婚した。双方にとって社会的にも職業的にも有利なこの結婚は、レオナルドが生まれる前に取り決められ、持参金も契約済みだった可能性が高い。
体裁を整え、都合よく収めるため、レオナルドが生まれて間もなく、ピエロはカテリーナが地元の農夫兼窯職人と結婚できるよう取り計らった。相手のアントニオ・ディ・ピエロ・デル・ヴァッカは、ダ・ヴィンチ家とつながりがあり、アッカッタブリガという通称で呼ばれた。「厄介者」という意味だが、幸い、実際にそういう人物だった様子はない。
レオナルドの父方の祖父母と父は、ヴィンチ村の中心部、城壁のすぐ隣に小さな庭付きの一族の家を構えていた。レオナルドはそこで生まれた可能性もあるが、そうではなかったと考える理由もある。身重の農家の女性、そして出産後に授乳する女性が、混み合ったダ・ヴィンチ家で暮らすのは不便で、体裁もよくなかったかもしれない。とりわけセル・ピエロは、結婚を予定していた娘の家族から持参金を取り決めているところだった。
一方、伝説や地元の観光業によれば、レオナルドの生家は、ヴィンチから道を2マイルほど上った隣村アンキアーノにある、農家の隣の灰色の石造りの小作人小屋だった可能性がある。現在は小さなレオナルド博物館となっている。一帯の土地の一部は、ダ・ヴィンチ家と親しい友人だったピエロ・ディ・マルヴォルトの一族が1412年以来所有していた。彼はピエロ・ダ・ヴィンチの代父であり、1452年にはピエロの生まれたばかりの息子レオナルドの代父にもなった。レオナルドが彼の土地で生まれたのなら、筋が通る話だ。一族同士は非常に親しかった。レオナルドの祖父アントニオは、ピエロ・ディ・マルヴォルトの所有地の一部に関する契約の証人を務めたことがある。土地の譲渡を記録したメモによると、その用件で呼ばれたとき、アントニオは近くの家でバックギャモンをしていたという。ピエロ・ダ・ヴィンチは1480年代に、その土地の一部を購入することになる。
レオナルドの誕生当時、ピエロ・ディ・マルヴォルトの70歳になる母親は夫を亡くし、その土地に住んでいた。つまり、ヴィンチ村から歩いて2マイルほどのアンキアーノ村では、隣に荒れた小屋のある農家に、一人暮らしの未亡人がいた。彼女は少なくとも二世代にわたるダ・ヴィンチ家の信頼厚い友人だった。地元の言い伝えによれば、荒廃したその小屋(納税上、一族は居住不能と申告していた)は、妊娠中のカテリーナを住まわせるのに理想的な場所だったのかもしれない。
レオナルドは土曜日に生まれ、翌日、ヴィンチの教区教会で地元の司祭から洗礼を受けた。洗礼盤は今もそこにある。出生の事情にもかかわらず、洗礼は盛大な公の行事だった。証人となる代父母は10人おり、その中にはピエロ・ディ・マルヴォルトもいた。教会の平均を大きく上回る人数で、参列者には地元の有力者も含まれていた。一週間後、ピエロ・ダ・ヴィンチはカテリーナと生まれたばかりの息子を残してフィレンツェに戻り、その月曜日には事務所で依頼人の書類を公証していた。
レオナルドは自分の出生事情について何も書き残していないが、ノートには、自然が愛の子に授ける恩恵について、興味をそそる言及が一つある。「荒々しく落ち着かない性交をする男は、気難しく信用できない子をもうける」と彼は記した。「しかし、双方が深い愛情と欲望をもって性交すれば、子どもは知性に優れ、機知に富み、活発で、愛らしくなる。」彼自身が後者に当てはまると思っていた、少なくともそう願っていた、と考えたくなる。
彼は二つの家で幼少期を過ごした。カテリーナとアッカッタブリガはヴィンチ郊外の小さな農場に落ち着き、ピエロ・ダ・ヴィンチとも友好的な関係を保った。20年後、アッカッタブリガはピエロが借りていた窯で働いており、長年にわたり、いくつかの契約書や権利証書で互いの証人を務めた。
レオナルドの誕生後、カテリーナとアッカッタブリガには女の子が4人、男の子が1人、生まれた。一方、ピエロとアルビエラには子どもができなかった。実際、レオナルドが24歳になるまで、父親にほかの子どもはいなかった。(ピエロは3度目と4度目の結婚で少なくとも11人の子をもうけ、埋め合わせることになる。)父親は主にフィレンツェで暮らし、母親は自分の新しい家族を育てるなか、5歳ごろまでにレオナルドは、余暇を好む祖父アントニオとその妻がいるダ・ヴィンチ家で主に暮らすようになった。1457年の納税調査で、アントニオは同居する扶養家族のなかに孫も記した。「レオナルド、上記セル・ピエロの子、非嫡出子。彼とカテリーナとの間に生まれた。カテリーナは現在、アッカッタブリガの妻である。」
同じ家には、ピエロの末弟フランチェスコも暮らしていた。甥のレオナルドとは15歳しか離れていなかった。フランチェスコは田舎でのんびり過ごすことを好む気質を受け継ぎ、父親自身が納税記録のなかで、まさに「目くそ鼻くそを笑う」ように、「別荘をぶらついて何もしない者」と記している。彼はレオナルドに愛される叔父となり、ときには父親代わりも務めた。ヴァザーリは伝記の初版で、のちに訂正したものの、ピエロをレオナルドの叔父と記すという、事情を物語る誤りを犯している。
「庶子にとっての黄金時代」
レオナルドの洗礼に多くの人が参列したことからもわかるように、婚外子として生まれることは公の場で恥とされるものではなかった。19世紀の文化史家ヤーコプ・ブルクハルトは、ルネサンス期のイタリアを「庶子にとっての黄金時代」とまで呼んだ。とりわけ支配階級や貴族階級では、非嫡出子であることは障害にならなかった。レオナルドの誕生時に教皇だったピウス2世は、フェラーラ訪問について記している。歓迎の一団には、支配者であるエステ家の君主が現公爵を含めて7人おり、全員が婚外子だった。「あの一族については、まことに驚くべきことがある」とピウスは書いた。「嫡出の後継者が公国を継いだことは一度もない。妾腹の息子たちのほうが、妻たちの子よりはるかに幸運だったのだ。」(ピウス自身も少なくとも2人の婚外子をもうけた。)
レオナルドと同時代の教皇アレクサンデル6世には、複数の愛人と婚外子がいた。その一人チェーザレ・ボルジアは枢機卿、教皇軍の司令官、レオナルドの雇い主となり、マキアヴェッリの『君主論』の題材にもなった。しかし中産階級では、非嫡出子はそれほど容易には受け入れられなかった。新たな地位を守ろうと、商人や専門職の人々は道徳的な規律を課す同業者組合を結成した。組合のなかには会員の非嫡出子を受け入れるところもあったが、レオナルドの父が所属した、由緒ある裁判官・公証人組合アルテ・デイ・ジュディチ・エ・ノタイ(1197年創設)はそうではなかった。「公証人は、公認された証人であり書記だった」と、トマス・キューンは『ルネサンス期フィレンツェにおける非嫡出』に記している。「その信頼性には一点の疑いもあってはならなかった。社会の主流に完全に属する人間である必要があった。」
こうした制約には利点もあった。非嫡出であることは、創造性がますます評価される時代に、想像力豊かで自由な精神を持つ若者の一部を解き放ち、創作に向かわせた。婚外子として生まれた詩人、芸術家、職人には、ペトラルカ、ボッカッチョ、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・リッピ、その息子フィリッピーノ、レオン・バッティスタ・アルベルティ、そしてもちろんレオナルドがいた。
婚外子として生まれることは、単にアウトサイダーであるという以上に複雑だった。身分に曖昧さが生じた。「庶子の問題は、家族の一員ではあっても、完全にはそうではないことだった」とキューンは書いている。そのことは、一部の人々をより冒険的で即興的にしたり、そうならざるを得なくさせたりした。レオナルドは中産階級の家族の一員でありながら、そこから切り離されていた。多くの作家や芸術家と同じように、世界の一部だと感じながらも、距離を置いて育った。この宙ぶらりんの状態は相続にも及んだ。法律の相違と矛盾する裁判の先例が重なり、婚外子が相続人になれるかどうかは明確でなかった。何年も後、レオナルドは異母弟たちとの法廷闘争でこの問題に直面することになる。「こうした曖昧さを扱うことは、ルネサンス期の都市国家生活を特徴づけるものの一つだった」とキューンは説明する。「それは、フィレンツェのような都市で芸術や人文主義が花開いた、あのよく知られた創造性と結びついていた。」
フィレンツェの公証人組合は非嫡出子を締め出していたため、レオナルドは一族に根づいた記録を取る習慣を生かしながら、自分の創作への情熱を自由に追求できた。これは幸運だった。彼は公証人には向かなかっただろう。退屈したり気が散ったりしやすく、とりわけ仕事が創造的でなく、決まりきったものになるとそうだった。
経験の弟子
婚外子として生まれたことがレオナルドにもたらしたもう一つの利点は、初期ルネサンスの身なりの整った専門職志望者や商人が古典や人文学を学んだ「ラテン語学校」に通わずに済んだことだった。「そろばん学校」と呼ばれたところで商業数学を少し学んだほかは、レオナルドはほぼ独学だった。彼は自らを皮肉を込めて「無学な男」と呼び、そうした立場を弁明するような様子を見せることも多かった。しかし、正規の教育を受けなかったからこそ、経験と実験の弟子になれたのだと誇りも持っていた。彼はかつて「レオナルド・ダ・ヴィンチ、経験の弟子」と署名した。この自由な思考は、伝統的な考え方の追随者となることから彼を救った。ノートのなかで、そうした自分を見下すと彼がいう尊大な愚か者たちを、次のように痛烈に批判した。
「私が文人ではないために、ある思い上がった人々が、私を非難して当然だと考え、学問のない人間だと言い立てるかもしれないことは、よく承知している。愚かな者たちよ!……自分自身の労苦ではなく他人の労苦によって着飾り、装い、胸を張って尊大に振る舞う。……書物による学問がないのだから、自分の描写したいことを適切に表現できないと言うのだろう。だが、私の主題には他人の言葉ではなく経験が必要だということを、彼らは知らない。」
こうしてレオナルドは、古典科学と独創的な思考が衰退して以来、何世紀にもわたって積み重なった古びたスコラ哲学や中世の教義を受け入れるよう教育されずに済んだ。権威を敬わず、定説に異議を唱える姿勢が、自然を理解するための実証的な方法を生み出すことにつながった。その方法は、1世紀以上後にベーコンやガリレオが発展させる科学的方法を先取りしていた。彼の方法の根底にあったのは、実験、好奇心、そして、私たちの多くが驚きの時期を過ぎると立ち止まって考えなくなる現象にも驚嘆する力だった。
そこに加わったのは、自然の驚異を観察したいという強い欲求と能力だった。彼は驚くほど精密に形や陰影を捉えようと努めた。羽ばたく翼の動きから、顔にちらつく感情まで、動きを見抜くことにとりわけ長けていた。この基礎の上に、頭の中で行うもの、素描を用いるもの、実物を使うものなど、さまざまな実験を重ねた。「先へ進む前に、まずいくつか実験を行おう」と彼は宣言した。「まず経験に問い、その後、なぜ経験がそのように働かざるを得ないのかを、推論によって示すのが私の意図だからだ。」
こうした野心と才能を持つ子どもが生まれるには、絶好の時代だった。1452年、ヨハネス・グーテンベルクは印刷所を開いたばかりで、間もなくほかの人々も活版印刷機を使って本を印刷するようになった。それはレオナルドのように、正規の教育を受けていなくても優れた人々に力を与えた。イタリアでは、都市国家間の戦争に荒らされないという珍しい40年間が始まろうとしていた。識字率、計算能力、所得が劇的に向上するなか、権力は爵位を持つ地主から、法、会計、信用、保険の進歩の恩恵を受ける都市の商人や銀行家へと移っていた。オスマン・トルコはまもなくコンスタンティノープルを攻略し、ユークリッド、プトレマイオス、プラトン、アリストテレスの古代の知恵を記した写本を携えた学者たちがイタリアへ逃れてくることになる。レオナルドと1歳違いで生まれたクリストファー・コロンブスとアメリゴ・ヴェスプッチは、探検の時代を切り開く。地位を求める後援者を惹きつける商人階級が栄えたフィレンツェは、ルネサンス芸術と人文主義の発祥地となっていた。
幼少期の記憶
レオナルドが幼児期について最も鮮明に覚えていたことは、鳥の飛行を研究していたとき、50年後に書き留めたものだった。彼はトビと呼ばれるタカに似た鳥について記していた。尾は二股に分かれ、優雅な長い翼で上昇し滑空する。いつもの鋭い観察眼で、着地する際に翼を開き、尾を広げて下げる様子を正確に見て取った。それをきっかけに、赤ん坊のころの記憶がよみがえった。「トビについて書くのは私の宿命のようだ。幼児期の最初の記憶の一つに、ゆりかごにいた私のところへトビが来て、尾で口を開き、尾を唇の内側に何度も打ちつけたように思えたからだ。」レオナルドの頭から生まれたものの多くと同様、この記憶にも空想や作り話が混じっていたのだろう。鳥が実際にゆりかごに舞い降り、尾で赤ん坊の口をこじ開けたとは考えにくい。レオナルドも「ように思えた」という表現を使い、夢が一部混じっていた可能性を示しているようだ。
母親が二人いた幼少期、しばしば不在だった父親、そして尾がはためく夢のような口への接触。こうしたすべては、フロイト派の精神分析家にとって格好の材料となった。実際、フロイト自身が取り上げた。1910年、フロイトはこのトビの話をもとに、『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』という小著を著した。
フロイトは、レオナルドの記録を不正確に訳したドイツ語訳を使い、鳥をトビではなくハゲワシと誤訳したため、出だしからつまずいた。そこから古代エジプトにおけるハゲワシの象徴性や、「ハゲワシ」と「母」を表す言葉の語源上の関係について、長い余談へと進んだ。どれも無関係な内容であり、フロイト自身、後に気まずく思ったと認めている。鳥の取り違えを脇に置くと、フロイトの分析の中心は、多くの言語で「尾」を表す言葉が、イタリア語の「コーダ」を含め、「陰茎」を指す俗語でもあるという点だった。そしてレオナルドの記憶は、彼の同性愛に関連しているとした。「空想のなかで、ハゲワシが子どもの口を開け、尾で力ずくで打ちつけるという状況は、フェラチオの観念に対応する」とフロイトは書いた。レオナルドの抑圧された欲望は熱烈な創作へと向かったが、抑制が働いたため多くの作品を未完にしたのだ、と推測した。
こうした解釈には、なかでも美術史家メイヤー・シャピロによる手厳しい批判など、強い批判が寄せられてきた。少なくとも私には、それらはレオナルドよりもフロイトについて多くを明らかにしているように思える。伝記作家は、5世紀前に生きた人物を精神分析する際には慎重であるべきだ。レオナルドの夢のような記憶は、彼が述べたとおり、生涯にわたる鳥の飛行への関心を反映しただけかもしれない。また、性衝動が野心やほかの情熱へと昇華されることを理解するのに、フロイトの助けは要らない。レオナルド自身がそう述べている。「知的な情熱は官能を追い払う」と、彼はノートに記した。
レオナルドの形成期の性格や動機を知る手がかりとして、より参考になるのは、フィレンツェ近郊をハイキングしたときの別の個人的な記憶だ。暗い洞窟に偶然出くわし、中に入るべきか思案したという。「陰気な岩場をしばらくさまよい、巨大な洞窟の入り口にたどり着いた。驚きに打たれ、しばらくその前に立ち尽くした」と彼は回想する。「身をかがめたり伸ばしたりしながら、中に何か見つけられないかと目を凝らしたが、内部の暗闇に阻まれた。突然、相反する二つの感情、恐怖と欲望が湧き上がった。脅威を感じさせる暗い洞窟への恐怖と、その中に何か驚くべきものがあるか確かめたいという欲望だ。」
欲望が勝った。抑えきれない好奇心が打ち勝ち、レオナルドは洞窟に入った。そこで彼は、壁に埋もれた化石のクジラを発見した。「おお、かつて生きていた自然の偉大な道具よ」と彼は記す。「その巨大な力も、何の役にも立たなかった。」幻想のなかのハイキングを描いた、あるいはセネカの詩句をもとにしたのだと考える研究者もいる。しかし、ノートの該当ページと前後のページには化石化した貝殻の地層の記述が並び、実際、トスカーナではクジラの化石骨が数多く発見されている。
クジラの化石を見たことで、レオナルドの生涯を通じて最も深い予感の一つとなる、終末をもたらす大洪水の暗い幻視が呼び起こされた。紙葉の次のページで、彼ははるか昔に死んだクジラがかつて持っていた激しい力を詳しく描いた。「お前は速く枝分かれしたひれと二股の尾を打ち振り、海に突然の嵐を起こして、船を打ちのめし沈めた。」それから哲学的な考察へと移った。「おお、万物をすばやく損なう時よ。お前はどれほど多くの王を、どれほど多くの国を滅ぼしたことか。この驚くべき魚が死んでから、国や境遇はどれほど変わったことか。」
この時点でレオナルドが恐れていたのは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない危険とはまるで異なる領域のことだった。その恐れは、自然の破壊力を前にした実存的な不安に突き動かされていた。彼は赤みがかったページに銀筆で素早く書きつけ、水に始まり火に終わる黙示録を描写した。「川は水を奪われ、大地はもはや緑を芽吹かせず、畑は風に揺れる穀物で飾られることもなくなる。新鮮な牧草を見つけられない動物はすべて死ぬ」と彼は書いた。「こうして、肥沃で実り豊かな大地は火という元素によって終焉を強いられる。そしてその表面は燃え尽きて灰となり、これをもって地上の自然はすべて終わる。」
レオナルドの好奇心に駆られて足を踏み入れた暗い洞窟は、科学的発見と想像上の幻想の双方をもたらした。それらは彼の生涯を通じて織り合わされていくことになる。彼は文字どおりにも心理的にも嵐を乗り越え、地の底と魂の暗い奥まった場所に出会うことになる。しかし、自然への好奇心は常に彼を促し、さらなる探求へと向かわせた。彼の魅了されたものも不吉な予感も、ともに作品に表されることになる。それは、洞窟の入口近くで苦悩する聖ヒエロニムスの描写に始まり、黙示録的な大洪水についての素描や文章に至って頂点を迎えた。
ウォルター・アイザックソン著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』より抜粋。Copyright © 2017 by Walter Isaacson. Simon & Schuster, Inc. の許可を得て転載。無断転載を禁じます。

